異国見聞私書録

異国から見たこと感じたこと気になったこと。そして時折テクノロジーのお話。

裁量労働制という言い繕いはもうやめだ。これからは”定額働かせ放題”にしよう

 日本人の働き方を変える話題になると、いつも登場してくるのが残業時間の扱いについてだ。残業時間の多さが長時間労働に結びついていると考える傾向にあるが、どうも問題をごまかしてるとしか思えない。経営側の本音はコスト削減と「隠された」利益増大にあると考える。

 

 経営者にとって残業時間の多さというより「残業代支給」の方にフォーカスしたいのが本音なのだろう。裁量労働制を普及させたい思惑には、残業代をカットしたい、人件費を可能なかぎりカットしたいということが経営層にとって何より大事なのだ。「コスト」としての人件費が少なくなれば、その分、企業利益は増大するからだ。

一方で、できるだけ多くの時間を企業のために使ってもらいたいという思惑も存在する。できるだけ多くの時間を働くことに使ってもらえれば、それだけ利潤も増大する。ただし、コストは計上しない形で。すなわち労働者には「タダ働き」をもっと多くやってもらえればもらえるほど、経営者にとって都合よく「隠された」利潤につながるわけだ。

 

 ホワイトカラーなんちゃらとか、裁量労働制とかいろいろ言葉を変えて毎回登場してくるが、どう言葉を言い繕うと、経営者の本音と労働実態は間違いなく「定額働かせ放題」を導入したいのである。

 この記事の中で裁量労働制について以下のように触れている。

業務量については労働者には裁量がないということを意味します。

この一文に全て集約されているように思う。どんなに効率的・生産的に労働者が仕事をしたとしても、次から次へと業務が降ってくる状況下では、断われないようにできている。もちろん良心的な会社であれば、その人の能力に応じて最適量の仕事を割振ることを考えるだろうが、ブラックな企業にとっては、労働者が断れないことをいいことに、その人を使い潰すまで容赦なく仕事を与え続けるだろう。

そもそも企業活動というものは「成長をし続ける、利潤を出し続ける」ことが前提にあるので、一般傾向として、次々業務が生じ続ける運命にある。どんなに労働者側が効率の良い仕事をしても、生産性向上に勤めても、空いた時間に新たなる仕事が生じる宿命にある。

一般的に何もないままでは歯止めが効かないのが企業活動であり、それは過去の歴史やニュースをみればよくわかる。24時間365日間働き続けることは、生物である人間にとって摂理に反することなので、ルールとして労働規制が絶対に必要なのである。

 首相の答弁していた内容はデータに問題があることはもちろんだが、企業が「性善説」に基づいて運営されているという前提に立って述べていることにも問題があると思う。「企業活動は歯止めが効かないもの」としての前提を持たなければ「改革」の意味をなさない。

ましてやこれだけ過労自殺、長時間労働やブラック企業が問題になっている状況下において、それでもなお、企業性善説に基づいての「働き方改革」を謳うには無理がありすぎやしないか。日本にある企業や組織が総ブラック化しているというのは言い過ぎかもしれないが、少なくとも潜在ブラックが多数存在する状況下において、このような「おめでたい」答弁は世界の笑い者になるだけだ。

  

 この記事の中では、裁量労働制の削減が「日本の国際競争力の地盤沈下がさらに進む」 かのように述べられているが、それは現状をまったく逆に認識している。すでに「定額働かせ放題」を進めてしまったがために競争力の地盤沈下が起きたのだ。

労働者にいくらでも働かせられる状況を作り、ブラック企業の跋扈を許し、結婚も子どもをもうけることもできない環境を日本社会は容認してきた。その結果、社会的に疲弊し、「競争力の地盤沈下」どころか国際社会での生存すら危ぶまれる状況下にある。

このブログで繰り返し述べていることだが、そもそも労働時間が削減されたところで「地盤沈下」など起きるはずはない。筆者は英国に在住しているが、周囲の英国人たちは基本的に定時帰宅する。残業を行うのはよほどのことだ。それでも会社や英国経済は回っているのである。日本との単純比較はできないかもしれないが、日本のような社会・経済構造の国のほうが「特殊」と認識すべきだ。

 逆転の発想から、労働時間を規制し、労働以外の時間を多く持てる環境づくりをしていくことをもっと問われていい。今までのやり方の「強化」が問題解決につながると思ったら大間違いである。経済界は「悪夢」を心配するのではなく、自分たちそのものが「悪夢」を作り出してきたことを猛省していただきたい。

 

 労働者側の認識も問題がある。経営者でもないのに「経営者目線」を求められ、それに疑問なく従うのはどうしてなのか。本来「経営者目線」を求められるのであれば、「経営権」を求めててもいいはずである。実際の経営に参画して、重要決定事項の決定権を求めてもおかしくない。

経営者から労働者に対し、一方的に「経営者目線」を求めるのはおかしなことで、それに対する見返りがない状況は「ビジネス」とは言えないはずである。

 筆者が考える労働者に「経営者目線」を求められる状況というのは、経営者の思惑を探り、あくまでそれを自分たち労働者の利益につなげていくための布石にすぎない。労働者が「経営者目線」を実際の経営に活かしていくことは、経営決定権がない状況下では、本質的に意味のないことであり、そんな目線を持つのは時間の無駄である。そのような目線を持つ時間があるのであれば、どのように仕事量を減らせるかを考えたほうがよっぽど有意義な時間だと思う。

 

やろうと思えば趣旨を逸脱した運用が簡単にできてしまうという点で、この制度には大きな欠陥がある 

 裁量労働制やホワイトカラーなんちゃらは、趣旨を逸脱した運用ができるように法律を定めようとしているのは明白であり、意図的なものである。そこには今までのやり方の延長線上で、というよりさらに悪強化させる形で、働かせ方を「改革」しようとしている。運営方針そのもの(長時間労働による成長戦略)は何も変わっていない。それは本質的に「何も変えないで、今までのやり方を強化・保持しよう」という思惑が見え隠れするのである。

 本質が何も変わらないのであれば、無為無策と同義であり、日本社会に横たわる大きな問題の数々、(長時間労働、過労死、ブラック企業、少子高齢化社会、etc)は増大していく一方になるということだ。傷口をこれ以上大きくしないためにも、「定額働かせ放題」な改革は今一度白紙に戻すべきである。