異国見聞私書録

異国から見たこと感じたこと気になったこと。そして時折テクノロジーのお話。

ビッグデータの本質とその先にあるもの

ビッグデータと呼ばれるものの本質とその向かう先は何か。

ビッグデータの本質は「傾向分析」にある。一見脈絡のない大量のデータ群の中から一定の傾向を見出した時にその真価が発揮される。ありとあらゆる事象を測定し、データ化することでその分析が可能となる時代に私たちは生きていることを認識したほうがいい。この記事にもある通り、Appleのサービスが普及すれば、購買履歴や健康状態からそのユーザの将来生活予測、果ては寿命もある程度割り出すことが可能となるだろう。

現在は各企業のサービス間連携が取れているとは言い難い。Amazonはユーザの購買傾向に対しては強みを持つが、健康管理ではデータを集められているとは言えないだろう。Googleもインターネットの使用傾向には比類なきデータを集めているだろうが、金融分野で成功しているとは言えない。人間関係や趣味がわかるFacebookでも、ユーザの光熱費まで把握することはできていない。

各サービスとも莫大なデータを持ってはいるが、得意分野に偏ったもので、総合的な人間の活動を詳細にトレースできるものはない。これらが今後、連携、もしくは統合されていくと思う。横断的にデータ連携されてはじめて「総合データとしてのヒト」の姿が見えてくる。おそらく、AppleなりGoogle、Amazonといった巨大IT企業はそこまで「データとしてのヒト」を視野に入れているに違いない。

これが実現できれば、格段に個々人への配慮が行き届いたサービスが提供できるようになるだろう。それと同時に、人間がテンプレート化され、個々人が行う行動予測も容易になる。例えばの極論話だが、テロを行う前に「予測」でき、逮捕も可能というSFまがいのこともありえない話ではなくなる。上記の記事ではビッグデータとして個々人のデータが管理されることを「そら恐ろしくもある」と表現しているが、筆者はそれぐらいの恐怖ではおそらく済まないと考えている。

なぜなら、ユーザの「行動予測」だけでなく、「行動誘導」も視野の範囲に入れているはずだからである。ビッグデータの傾向分析から、どのユーザに、どういう情報を流せば、どういう行動を取るかがある程度、予測可能となってくるからだ。世論誘導のツールとしてこれほど便利なものはない。

問題はこうした精度の高いツールを巨大企業が独占して良いものなのかというところにある。もう一歩進めて言えば、問題ある為政者の手に渡ったときはどうなるのか、想像力をふくらませて考える必要がある。

情報に「力」があることは間違いない。それだけでなく、今まで無意味な巨魁と思われていたデータ群にも莫大な「力」が備わっていることを21世紀を生きる人間は忘れてはならない。