異国見聞私書録

異国から見たこと感じたこと気になったこと。そして時折テクノロジーのお話。

愛は強要されるべきものか

 国歌を斉唱することには特段珍しいことではないが、こうしたあたかも強要するような言い分は好きにはなれない。国歌は歌いたい人が歌えばいいし、起立したい人が立てばいいのだと思う。

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 国歌を歌うことの背後に愛国心を育むことや敬愛する心を成長させる意図があるなら、なおさら歌うことを強制すべきではない。愛することを強要されることほど理不尽なことはないからだ。

 そもそも愛することというのはその人や事象の背景、経緯、今ある状況をできうる限り、個々人として網羅してから判断すべき行為だ。それをまだ知らない状況下で「愛する」という行為を押し付けるのは「愛の押し売り」とそう変わらない。これはある意味ストーカー行為を国ぐるみで行っているに等しく、加えて「自国は愛さなければならない」という価値観を幼少の頃から植え付けるのは教育というより「洗脳」に近いものだ。

 愛するという気持ちは本人の内側から生じなければ意味を成さない行為であり、これを外側から無理に形作ろうとすれば歪なものに成らざるを得ないのではないか。例えば、独裁国家における異常なまでの君主に対する敬愛心などはそれに当たるだろう。君主が死ねば国民が泣き叫ぶ様子が映像に出るが、同じ屋根の下で暮らした経験もないのに、もしくは一言も言葉すら交わしたこともないに、どこからか生じる「愛」により泣き叫ぶ気持ちになれるのは、一般的に見て思考回路がおかしくなっているとしか思えない。自らの深い肌感覚と長い経験に裏打ちされてない「愛」など所詮まがい物だと筆者は信じている。

 

 さらに最近の愛国心を煽る状況が問題だと思うのは、自国の優越性と隣国における劣等性の強調がセットになってシナリオが作られていると思われるからだ。セットになっているといってもこれらが同媒体で並列し比較して語られるようなことは少ない。同一媒体であってもあくまで別議題として語られ、別媒体としてならばそのどちらか一方を強調するよう巧妙に語られている。だが、多くの読者/視聴者にとってその二つは別物として捉えることは稀であり、繰り返し報道、配信されることで自らの優越性と隣人の劣等性のリンクは強化されていく。

 隣人の劣等性を片方の軸にした自国に対する「愛国心」醸成は、いつか歩んできた道でもある。人間としての優劣を手前勝手に定義付けし、数々の非道を行ってきた過去の歴史を日本人は持っていることを忘れてはいけない。いわば恣意的にかつ強制的に作られた「愛国心」の歪みの向かった先が勝手に「劣等」と定義付けされた隣国であったわけだ。

 

 繰り返しになるが、本当に愛国心を生じさせたいのであれば自由意思以外からはありえない。国がきちんと運営されていれば愛国心を発起させようとする試みなどやらなくともいいはずであり、自然と皆、自身の経験から愛するようになるはずである。これをなかば強要するようなやり方で行おうとしているのであれば、それは皆に「国を愛させなければならない」何らかの恣意的意図があると見るべきである。

 

 さらに言うのなら国を嫌悪する自由も、愛憎といった感情すら持たない自由も同一基準で許容されて扱われてもいいはずである。そもそも「愛する感情を持つ」という同一ベクトルのみでは、愛国心そのものの定義が何なのか薄らいでいくのだから。

 これぐらいの懐の深さを持って初めて国として「愛国心」とは何かを語れるのではないだろうか。