異国見聞私書録

異国から見たこと感じたこと気になったこと。そして時折テクノロジーのお話。

ブラックな妄信から発現する「国民全体の願い」という言葉

さすがは経団連の会長さんである。よくもこういうことをヌケヌケと言えるものだ。

原発再稼働「国民全体の願い」 経団連会長:朝日新聞デジタル

以前にも書いたがこの経団連の会長さんはブラック臭が強く漂う方である。ブラック企業の経営者に共通するのは、世界は自分中心に回っているという壮大な錯誤をする傾向にある。この文面からも「国民全体の願いでもある」と宣っていることから、その恐るべき妄信が垣間見られる。

原発再稼働が「国民全体の願い」であるわけがない。これは福島にいる少なくない方々を愚弄した発言だと筆者は思う。少しでも想像力がある者ならば、あの事故を思い浮かべれば、原発再稼働が幸福につながっていく方程式は欺瞞に満ちたものであることがすぐ認識できるだろう。それにも関わらず、どうしてこんな発言ができるのか。

筆者の見立てでは、このような人たちは福島周辺地域を見限ったのではないかと思う。東京オリンピックを招致する時も、「東京は安全である」といった趣旨の発言があったと聞く。つまり産業の中心地や、栄えている地域さえ守られていればそれでいいと思っているフシがある。もっというなら自身と自分に関係する地域や人間さえ良ければいいのかも知れない。まさに臭いもの、見たくないものには蓋をしていく「選択と集中」。経営者の鏡ですね、彼らは。

彼らに優秀な人が多いのは確かだ。ただしそれは自分の得意範疇だけであって、それが他の世界でも同じように通じるとは限らない。しかし、彼らは自分を微塵も疑うことなく、自分の考えや価値観を強烈に押し売りしてくる。彼らのその姿勢を見るたびに筆者は辟易してしまうのだ。

彼らの言うその価値観を受け入れる人もいれば、受け入れられない人もいる。それが世の中を構成している要素だと筆者は思っているが、彼らには自分の世界こそが絶対であるという、あたかも「信仰」に類似したものがあるようだ。そして「信仰」がない者達は見限られるか、排除の方向に向かうのは、彼らにとって必然である。彼らにとっての「国民」は自分の考えを疑いなく「信仰」してくれる者たちだけであり、それ以外は眼中にないか、出て行ってもらいたい存在なのである。

こういう人たちを「リーダー」として讃えたいのであればそうすればいいと思う。ただ、そのような社会にあっては、讃えていた者達もいずれ排除の対象となり得ることを忘れてはならない。絶対性を追求していけばいくほど、その「純化」は避けられないからである。

筆者は「ブラック」に純化していくことにその意味を見い出せない。一人でもそのような国民がいることで、「国民全体の願いでもある」と言う言葉を是非とも否定していきたい。