異国見聞私書録

異国から見たこと感じたこと気になったこと。そして時折テクノロジーのお話。

非日常に遭遇したとき、人はどう振る舞えるか

 日本の外から見た、日本人の自殺についてのドキュメンタリーを見た。少し長いがとてもよく核心をついていると同時に、作製者の日本に対する愛情もよく伝わってくる。


SAVING 10,000 - Winning a War on Suicide in Japan - 自殺者1万人を救う戦い - Japanese Documentary - YouTube

 ドキュメンタリーの最後の方にある、東尋坊で自殺を水際で止めるボランティア活動をしている方の言葉が頭にこびりついて離れない。

「(自殺しようとする人は) 助けを待っているのに、なぜ手を差し伸べて上げないかな」

大阪で3人の若者にメチャクチャに暴行されて死亡 殴られても殴り返さなかった 無抵抗を選んで殺されたネパール人の無念を思う | 経済の死角 | 現代ビジネス [講談社]

 日本人の若者に殺されたネパール人は殴り返さなかったが、心の中では助けを求めていたに違いない。それも日本人の助けを欲していたのだと思う。なぜならわざわざ同国のネパール人の助けを制し、たとえ彼らが仲裁に入ったとしても、問題はいい方向に向かわないことを身を以て知っていたからである。

 日本人の助けが入っていれば問題は大きく変わっていたはずだ。それもおそらくいい方に。でも誰も助けなかった。異国人が撲殺されるところを見てみぬ振りをして通り過ぎていっただけであった。日本人は助けの手を差し伸べなかった。

 暴力は恐ろしい。万が一でも自分に降り掛かることは、是が非でも避けたいのは誰でも同じである。もし自分がその場にいたら何ができただろうか。人への暴力が振るわれている場面で、どう振る舞えばいいか適切な判断をできる人は今の日本ではとても少ない。そういう場面でどう振る舞えば良いか教育も受けていないし、そもそも必要ともされていないのだから。そうした振る舞いで稼ぎ、食べて行くことが可能な人は極めて少ない。

 地下鉄サリン事件のときも似たような話を聞いた。地下鉄の駅中を大勢の人が倒れ苦しんでいる横を多くの通勤客が何事もなかったように、機械的に仕事場へと向かって行ったそうである。おそらく彼らも職場での振る舞い方は知っていても、そうした非日常の場面に遭遇したとき、どう振る舞えばいいのかわからなかったのだ。それよりも仕事場に遅れる心配のほうが彼らの心を占めていた。

 

 例えば今東京で天変地異が起きたとき多く犠牲が出ると単純な予想はできるが、「犠牲の過程」は関東大震災の時と異なるのではないだろうか。避難訓練の多寡という問題ではなく、非日常下での振る舞いに対しての構えが希薄すぎるからだ。非日常という現実に対して正面から見つめるということができなくなってしまっている日本人は着実に増えている。

 自殺は自己責任に起因し、暴力は見てみぬ振りで許容、苦しむ人より自己都合が優先。「お・も・て・な・し」の国を一皮むけば「ひ・と・で・な・し」の裏の顔が牙を向く。一応日本は先進国のお仲間ということになっているようであるが、ここまで非日常に対して無防備な国民も珍しいように思える。

 

 とはいえ、筆者も英国の地下鉄で他愛もない非日常を経験したことがある。車中の乗客のかばんから発煙し、テロが疑われたが幸いにもかばんの中に入れてあった可燃物が煙を噴いただけだった(これは後になって知った)。しかし、乗客たちは逃げるのにかなり必死であったことはよく覚えている。筆者自身も事態がおかしいことに気づきあわてて逃げたが、乗客同士、声掛けあって避難するなどということは露も思わなかった。自分が逃げるのに精一杯。ただひたすら出口に向かう。

 これまで偉そうなことを書いてきたが、非日常に対して選択できる行動を多く持つということは簡単なことではないのは確かだ。焦りと不安と周囲の雰囲気から、考えや行動が狭窄していく自分を逃げきった後から振り返ることができるものである。

 非日常下での振る舞いを会得していくには、非日常に対して温かい情を持って触れていくしかない。小さな非日常での行いを積み重ねて自分の「日常」へと咀嚼していくことで、大きなものが来た時へ備えていく。反対に非日常を無視するということは、それに冷酷に対応することと大きな差はない。そのツケはいずれ自分に降りかかってきたときに支払うことにつながる。

 こうしたことは頭でわかっていても染み付いた行動に落としこむことは難しい典型例である。明日から一歩ずつ踏み出していく以外にない。