異国見聞私書録

異国から見たこと感じたこと気になったこと。そして時折テクノロジーのお話。

インターネットとの間合いの必要性について

 適正距離を取ることはあらゆる場面で必要となるが、インターネットも例外ではないという話しである。

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 これは言い換えると人の意思や行為が介在している場所において、互いに「距離」がないところはないということだろう。身近な例では、車を運転するにも車間距離は必須であるし、少し特殊なものでは格闘技における「間合い」もそれに相当するだろう。

 ボクシングの世界において、「左を制する者は世界を制す」という格言があるが、これはジャブを打つのが速いとか強いというだけでなく、対戦相手との距離感を保つのが上手いからだと聞いたことがある。また、車を運転している人で車間距離に気を使っていないというひとがいたら、おそらくその人は高い確度で過去に事故を起こしていることだろう。

 言葉という直接的な意思伝達媒体が登場しないこれらの場面においても、互いの「距離感」についてはものすごく気を使っていることがわかる。ましてや言葉が行き交うインターネットの世界においては、本来もっともっと気を使う必要があるのだと思う。

 

 言葉の持つ力はすさまじく、人の思考や意思を拘束したり、一方的に行動を導く力を持つ。個々人間でのやり取りにおいても、あからさまでなくともその力は常に対話の裏側で働いているが、不特定多数を相手にするインターネットの世界では瞬時に多くの人に広がっていく。その場において認知された言葉は、一つの「空気」を醸し出し、他の意見を受け付けない方向に流れることも珍しくない。よく2ちゃんねるなどで見られる現象はその典型例であるが、あの中で一つの思考ベクトルに持っていこうとする者たちが少数存在する傍らで、特段それらの意見に賛同していなくとも、一連の「空気の流れ」から結果的に「流されている」者たちは相当数いるはずである。

 自分たちと異なる意見を持つ者たちに対してあからさまに敵意をむき出しにし、それらを煽ることでなんとなく漠然とした「正論」や「論破」感を味わっている者たちは、果たして本当にそれは自分の思考結果から導きだした考えや行動だと思っているのだろうか。もしそうだとすれば、それは言葉の力に思考が操られている一つの状況証拠であると見るべきだろう。

 

 インターネットの利便性は人類の歴史上、類い見られなかった効果を発揮しているし、これからもさらに加速していくはずである。忘れてはならないのは、それと並行して距離感のない言葉たちが直接思考に流れ込んで来ている現象があり、さらにこれからその傾向は激しくなるということである。また、それに対して覚悟を持たなくてはならない時代にもなった。

 「僕らはなんだかとんでもないものを解き放ってしまったような気がする」と村上春樹氏は述べているが、まったくその通りで、少しの気のゆるみが怒濤のような他者意識の集合体の侵入を許してしまう時代になっている。好むと好まざるとそれは解き放たれてしまったのであって、自ら距離を測りながら付き合っていくしかないのだ。

 距離を測り損ねたり、測る術を知らない者は「流れ」の一部として取り込まれ、自分の意志とは無関係に物事が進むことに甘んじなければならないだろう。もちろんこうした「取り込まれる」ことは以前から別形態で社会の随所に存在したが、現在起きていることは次元の違う規模と速さなのではないかと最近思うようになっている。

 流れに「取り込まれる」ことで不幸に直結することは少ないだろうが、着実に個としてのレゾン・デートルは削り取られていき、代替可能な「流れ」の一部品としてしか価値は置かれなくなっていく。そのような人生を本気で望んでいるのであれば、特に言うことはないが、一抹の寂しさは残さずにはいられない。

 そうならないためにはネット上でも、他者集合意識とどの程度関わるべきで、どれほど距離をおくべきか、その距離感をうまく把握できる人が現代におけるバランス感覚の優れた人と呼べるのかもしれない。