異国見聞私書録

異国から見たこと感じたこと気になったこと。そして時折テクノロジーのお話。

大学で得た、もっともじゃないが役立ってること

 そもそも以下のような質問はその場で即答できるものでもないし、させるものでもないと筆者は思う。

大学で得た「今、もっとも役立ってること」って何? - Chikirinの日記

時間をかけながらじっくりと自分を振り返り、考えながら回答すべき質問だと思うが、このブログの著者からは残念ながら、「せっかち感」しか伝わってこない。「即断即決」、「待ったなし」というような言葉がきっと好きなのだろう。このような人は読者の周囲にもおそらくいるはずだ。こうした質問に対する回答が深く、かつ多岐にわたると考えられるのに対し、こういう即断即決的な質問の仕方はあまりフェアとはいえない。「えっ? えーっと」みたいになるのは当然だ。だが今回はあえてそれに乗り、筆者なりの回答をしてみたいと思う。

◆ 大学で得たものその一

 引用したブログの著者にあるような、内容はもっともらしいが、思慮の浅い考えに染まらない思考法を得たこと。例えば、

  • 「授業料」という対価でしか学びの価値を測れないような考えは、廃棄できるになった
  • 単一の物差し(この場合は金銭)で物事を思考することの危険性を認識できるようになった
  • そして短絡的に物事を見つめた結果を世の中に出力しづらくなった

こんなことは大学で学ばなくても得られるかもしれないが、少なくとも筆者は大学生活で学んだことの一つであり、その後の人生においても十分と言わずとも、必要分、偏狭な考え方から遠ざかることに役立っていることは間違いない。

◆ 大学で得たものその二

 引用したブログの著者にあるような、内容はもっともらしいが、思慮の浅い考えに対し、対抗手段を持ち得たこと。例えば、

  • 偏狭な考え方を看破できるようになった
  • どうして看破できたかを伝える手段やその選択肢を持てた
  • そしてその手段や選択肢の使い方を習得できた

こんなことも大学で学ばなくとも得られるかもしれないが、少なくとも筆者は大学生活で学んだことの一つであり、思慮の浅い世界に足を絡めとられない分ぐらいの認識は得られたことは間違いない。

◆ 大学で得たものその三

 引用したブログの著者にあるような、内容はもっともらしいが、学びの姿勢に対する傲慢さに対し疑問を持てるようになったこと。例えば、

  • 「授業料の対価として得られたもの=大学で得たもの」という方程式は本当に人としての「学び」と言えるのか?
  • 実利のみを目論んだ「学び」の姿勢は果たして本当に学ぶことなのか?
  • そもそも学んだことがすべて「今、役立って」なくてはならないものなのか?

こんなことは学校、それも人格形成がしっかりしてきた時期にいく大学でないと湧かない疑問である。もちろん早熟な人は中高生ぐらいで疑問に思うかもしれないが、ほとんどの人は大学生ぐらいが時期だと想像できる。こうした疑問をトリガーとし、学問のあり方、学びの姿勢というものをゆっくり習得していくのだと思う。そのための4年間という時間なのだろう。

◆ 出来の悪い人への教育は制限される?

 大学で得たものはもちろんこれらだけではない。思いつくままに冒頭に書いた「フェアではないやり方」に則って書いてみただけである。

 筆者は大学時代、「授業料の対価として得られたもの」は極めて少なく、出来の悪い学生であったことは自認している。大学時代だけでなく、ほかの学生時代もそうであったと思う。だが、だからといって「お前はどうせバカだから実利に見合う学び方だけしろ」と言われたことは幸いなかった。これは本当に幸いだったと思う。しかし、大げさかもしれないが、引用したブログの著者の主旨はそうした言葉を遠慮無く浴びせかけられるような社会を指向したいのではないだろうか。実利に肉薄する教育は、そのような方向に向かいかねない。もしそうなら、それは教育の機会を奪うことにつながりかねない、あまり褒められた発想とは言えない。