異国見聞私書録

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映画評: Maleficent (マレフィセント)

立て続けに本のレビューでは少々退屈なので、映画評も書いてみたい。

マレフィセント | ディズニー映画


『マレフィセント』予告編 - YouTube

日本ではまだ封切前であるので、ネタバレしない程度に書くと、「眠れる森の美女」の別解釈バージョンの映画である。最近の映画のご多分に漏れず、CGをふんだんに使ったディズニーのファンタージー映画だ。しかし、ディスニー映画だからといって斜に構えてしまうのはよくない。確かにありきたりな「リメーク映画」と言えなくもないが、こうしたリメークには意外な「ターニングポイント」が隠されているように筆者には思えた。

昔からの「眠れる森の美女」に登場する魔女はいかにもダークさを全面に出した、「悪」以外の何物でもない描かれ方をしている。勧善懲悪物の典型であり、正義の王子様が最後には必ず勝つという、一方的な描かれ方で表現されていた。一方的な悪を一方的な正義がとっちめるという構図は、同時代の映画では好まれて演出された方法だったように思う。

こうした描かれ方は、子ども向けの映画とはいえ、そのような価値観が望まれていた時代だったのだろう。また、「正義と悪」という単純な構図で描ききれる、変数が比較的少ない時代だったのかもしれない。

今回の「マレフィセント」 での描かれ方は明らかに異なる。伏線の張りようにもこだわりを見せ、一筋縄では行かないように物語を演出している。映画鑑賞者の目が肥えてきてしまっている結果、そのような展開を考えたのか、あるいは現代社会背景がそのような演出を求めているのか。いずれにせよ、悪には悪の都合があることの描写に時間が割かれている。

別にこの「マレフィセント」に限らず、米国映画のリメークや続編モノは、今までの「正義一直線」的であった描かれ方から一線を引いていると思う。ネタ切れからそうせざるを得ないのかもしれないが、別の見方や解釈を試みることは悪いことではない。こうした大衆娯楽の流行は社会の成熟度を反映しているようにも見えなくもないだろう。

自分たちだけの価値観が唯一かつNo.1であった時代は、米国にとって終わりを告げつつある。他国との間合いや妥協点をどう図りながら付き合っていくかを考慮するには、「唯一」で動いていたのでは何かと都合が悪いのだ。米国の価値観にも疲労が蓄積し、次の方向性を探る兆しがこうしたリメイク映画などに現出してきている気がする。米国社会もターニングポイントに立たされているのである。

話が少々それてしまったが、アンジェリーナ・ジョリーもこの役柄にピッタリだ。いい味をだしていた。もともと魔女っぽい顔つき思っていたが、この人はやはり悪女やダークな役がしっくりくると思う。嗚呼、とてもいじめられたい気分になる・・・。