異国見聞私書録

異国から見たこと感じたこと気になったこと。そして時折テクノロジーのお話。

異国との理解は難しいが、避けられないの現実である

これを書いた人は日本人だろうか。それともそれ以外の方だろうか。

日本は外国人のことを舐めてる!

日本における社会的な事象を鑑み、そしておそらく自身の経験も織り交ぜながら「舐めている」と感じているようだ。

もし「舐めている」ことにレベルがあるとしたら、一部においては、「認めようとする世間体は繕おうとしている」気概ぐらいはあるような気がする。ただ、自分たちの共同体として、社会の身近な存在として認めようとする姿勢は、欧米と比較するとしたら、「舐めている」とか言えないレベルなのは事実だろう。

 

国際結婚をしている日本人の方を幾人か知っている。国際的なバランス感覚を抜群に身に付けている方がいる一方で、日本に対する国粋主義的なまでの期待と情熱をお持ちの方も少なくない。

後者は日本文化に対する異常な執着と保守傾向や、日本の周辺諸国に対する敵愾心を隠そうともしない。よく異国の人と結婚し、生活を共にできると傍から見ると不思議に思えてしまうが、たぶん長らく異国で生活する中での「澱」が積もることによって、偏った想いとして自分の無意識下で具現化してくるのではないだろうか。一筋縄では行かないことが異国での生活なので、そうなってしまうのも不本意ながらも、理解できないこともない。

偏った想いが強くなってしまっている場合、異国のパートナーとはそれを共有し、理解し合っているのであろうか。そこまで踏み込んだことはないので想像するしかないが、どこかで一線を引いている気がしてならない。人は極端なものを互いに共有できる例はそう多くはない。片割れが周囲との「空気の同調」を重視する日本人ではなおさら共有は難しい。おそらくパートナーの知らないところで、母国人同士で毒を吐いていることも多いのではないだろうか。精神の均衡を保つためには仕方のない振る舞いなのかもしれないが、あまり人に自慢できる行為ではないような気がする。

 

筆者の感触からすると、他者に対する本質的な理解をし合おうとする姿勢は、日本人は異国の人それと比べて劣っていると思う。確かに本質的な理解などできようもないのかもしれないが、ただ、それを求めようとする姿勢まで失っては溝は埋まることは永久にない。表面的に取り繕う必要性も否定はしないが、関係が深まればどの時点かで理解し合おうとする姿勢は必ず求められてくる。

母国人だけで理解し合える「空気」を醸成する、「空気」の範疇外にある者に対しては一線を引く、そしてその「空気」の中で生成された勝手な思い込みにより異国人のイメージをつくり上げる。地球が狭くなりつつある現代で、この循環は「空気」の内外に悪影響を与えるケースのほうが多くなるのではないか。筆者には溝を深めていくことに意義を見いだせるとは到底思えない。

日本人は異国の人と比べて優れた面も多くあるのは確かであるが、劣っている面もまた同様に多いのも事実だ。せめてその現実に目を向けられるだけの勇気を多くの人に持ってほしい。