異国見聞私書録

異国から見たこと感じたこと気になったこと。そして時折テクノロジーのお話。

なぜ「戦争をさせない国」になる必要があるのか

全く賛成できない意見。 こうした考えこそが相互の国を軍事拡張競争に巻き込むのではないかと思う。

なぜ「戦争のできる国」になる必要があるのか
http://blogos.com/article/75934/?axis=b:80

この記事の考え方には致命的な欠陥がある。戦争が可能な状態にしておくというのは、常にお金がかかる状態にあるのと同義である。これを書いている人は経済学者でありながら、その部分を明言を避けている、ある意味卑劣かつ劣悪な記事である。

経済・軍事力第一位の米国では多額の軍事費が必要とされていることは言うまでもない。この記事で例に出されている経済大国第二位の中国と軍事力で渡り合うには、それ相応の額が必要となってくるだろう。ただでさえ赤字国債を乱発している状態で、そのような額をどのように捻出するつもりなのだろうか。数字など持ち出さなくても子どもでわかる理屈だ。

また、「核兵器のおかげで人類は近代で最長の平和を実現した」というのも幻想である。核兵器が存在しても、世界のどこかで必ず戦争や内乱が起きているというのが現実である。一昔では、イラン・イラク、ベトナム、最近ではアフガニスタン、パレスチナ、シリア・・・・核兵器があっても戦争や紛争は起きたし、今も絶えていない。ここから言えるのは核兵器で戦争を抑止することはまずない。何を抑止しているかといえば、核戦争を抑止しているだけである。そして核戦争をヤメにしたいのであれば理論上「核を全員持たない」のが一番の解決策である。しかしそれができずに、原爆が開発されてから莫大な「無駄金」を投じてきている。この記事の筆者はこうした「無駄金の競争原理」を日本に持ち込みたいとみえる。

必ずしも「戦争のできる国」=「戦争をする国」ではない。だが、戦争が可能であるということはちょっとしたきっかけで戦争に発展する確率も高まるということであると思う。争いごとなど些細なことがきっかけで起きるものである。自制が効く指導者が国を治めている間はいいかもしれないが、今の日本の指導層では甚だ心もとない。ましてや最近、専制君主国家を目指しているのかとも思える行動を見るに、情報や権力が一極集中するような政体下にあっては、外部からの監視や抑止が効かなく、権力を持つ「とある個人」のやりたい放題になる可能性が極めて高い。

我々が目指すべきは「戦争をさせない国」である。「戦争が可能」な結果、「戦争を起こさせない」のではない。戦争を「必要悪」と捉えることでもない。本当の仮想敵は「戦争をする」という行為そのものであり、それは「絶対悪」と認識することだ。戦争をする環境を自他国含め整えさせない、したいとも思わせないことがキーポイントとなる。そのほうが圧倒的に安上がりだし、何より人が殺されることはない。

これについてナイーブだとか理想論だとか言う意見は聞き飽きた。どんな理論を並べても「人殺しが可能」なことを前提とした国家方針がそんなに崇高に見えるとしたら、それは人として大きな欠陥を抱えているということだ。そうなってはもう精神的な病のほうに議論を譲りたい。

間違えても「戦争のできる国になる」などと謳ってはならない。こんなことを宣っている国こそ国際的な常識を知らないナイーブな国である。軍事大国でももっとうまくやっている。私たちが掲げるべき方針は戦争ができなくとも「戦争をさせない」方法を、ない知恵絞って今日も明日も考えることにある。