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異国見聞私書録

異国から見たこと感じたこと気になったこと。そして時折テクノロジーのお話。

「民意」と「解釈」

thinking politics

 もう特段驚くことではなくなってきたが、人の意見に耳を貸さず、自分のやりたい放題を強行していく政権が、また後世に残る所業を働いてくれた。

 上記の記事では肯定的に捉えているが、筆者は全くそうは思わない。本来やるべき「改憲」という手続きをすっ飛ばして、「自分流」に解釈した法案を推し進めるやり方は誰が見ても異常だと思うはずだ。もし思わないのだとしたら、その人もおそらくルールに従うということを軽視する傾向にある人物に違いない。

 

 先の選挙で自民党は勝ったのだから民意の反映が今回の可決につながった、という声が聞こえてくる。確かにそうなのだ。選挙に行かなかった者達が悪い。過半数の議席を自民党に与えたくなければ、きちんと他の政党に投票することだ。全く持って優等生的な回答だ。

 でも、数が揃っていれば何をやってもいいものなのだろうか。大原則には手を付けず、その場の流れと自分とその「お仲間」たちの解釈で、世の中にあった今までの解釈を勝手に曲げていいものだろうか。ほとんどの憲法学者たちが違憲と述べているにも関わらず、それを無視した形で自分たちの解釈を強行するという姿勢は乱暴すぎやしないだろうか。民意さえあればルールを変えることなく、人々の持つ「解釈」さえ変えればいいのか。民意さえあれば何をしてもいいのだろうか。

 

 民意があるからこそ、本来は大原則としてある「ルール」から変えていくべきではないのか。それをなぜこの政権はしないのか、あるいはできないのか。例えるなら、「人を殺してはなりません」と明確に書かれているルールを「人をあるいは殺してもかまいません」と解釈するのは無理がありすぎる。筆者はこれぐらい無理矢理の解釈を今回は行ったと考えている。ルールの解釈も劣悪なれば、民意そのものの解釈もめちゃくちゃ。それもこれも選挙でそのような人を選んでしまったから、という解釈だけで素直に納得してしまっていいものなのか。

 

 話は少し逸れる。この法案が可決されたことをニュースで知ったとき、英国人の同僚に「日本もこれで国際的な責任が果たせるようになったな」と笑いながら話しかけられた。

 本当にそうなのだろうか。米国や英国が行っていることが本当の意味で「国際的な責任」なのだろうか。中東に出向いて「テロリスト」たちとドンパチやって血を流すことを「国際的責任」というのだろうか。職場で政治の話をするのは好ましくないと思いつつ、特段述べることなくその場を離れたが、モヤモヤした想いは払拭できない。

 欧米の多くの国において、「テロリスト」たちと戦うことがおそらく一般的な「民意の反映」なのだろう。今回の「解釈」に賛成する日本の人たちも程度の違いはあれ、概ね「戦える」姿勢を備えていることに対しては親和性が高いはずだ。つまり主要国中の統一合意として、いつでも戦える姿勢を「テロリスト」たちに見せつけるのが「民意」なわけである。

 今、世界中でこの「民意」が膨れ上がっているのだと思う。確かに残忍なテロリストもいるが、犠牲者の中にはそうでない者たちも多く含まれているはずである。テロリストかそうでないかなど、見分けをつけるのはそう容易いものではないはずだから。「民意」の旗印のもと、「テロリスト」とその周辺にいる人々も一緒くたに、戦いに巻き込んでいこうとするのが今行われている戦いなのである。

 なぜ「テロリスト」が発生するのかという疑問は一先ず置いておいて、今は戦うことが先決。とにかく「テロリスト」をまず根絶やしにすることが「民意」である、と言っているように思えるのが筆者の「解釈」である。

 

本当の悪魔とは、巨大に膨れ上がったときの民意だよ

 筆者の気に入っているドラマ『リーガルハイ2』の一場面に出てくるセリフである。世界中でこの「民意」が膨れ上がったとき、どのような結末を迎えるのか、我々はまだ知らないが、過去の歴史から悪魔の姿は想像できる。現政権の決断はまた一歩、いつか見た悪魔とまた遭遇する方向へ向かいつつあると容易に想像できる。