異国見聞私書録

異国から見たこと感じたこと気になったこと。そして時折テクノロジーのお話。

容赦なく、無慈悲な年の瀬でも・・

 今年ももうすぐ終わる。筆者の駄文に付き合っていただいた方々にはなんとお礼を申し上げたらよいのか。来年も何卒よろしくお願い申し上げます。

 筆者はなるべくブログのアクセスカウンターに目を通すことにしている。ブログをはじめて一年以上が過ぎたが、筆者の文体や表現がアレなせいで泡沫ブログなのは言うまでもないことだが、アクセス数でどれだけ自分の考えや想いが世間に見られているのかある程度参考になる。ここのところアクセス数がわずかではあるが増えており、来年は少しでも読者が増えてくれることを願っております。(いつも読んでいただいている方たちにもとても感謝です)

 

閑話休題。

東京新聞:「命に関わる」渋谷炊き出し決行 公園使えず歩道脇で:社会(TOKYO Web)

 英国の姿は未来の日本に近いものがあると筆者は見ているが、外でホームレスたちのために炊き出しを行っているところはまだ見かけたことがない。だが、シェルターや教会などでは人目につかず行っていることだと思う。

 英国にもホームレスは多い。以前にもブログで紹介したことがあるが、地下鉄の中や駅構内でお金を求めている人たちをよくみかける。日本よりも明らかに異なるのは、その人たちにさまざまな物を恵んでいる人たちが多いことだ。お金もあれば、スーパーで買った食物、服、パーティなどで余った食べ物などもあげている。まるで友人と話すかのように、違和感なく寄付している。特にクリスマス前にはこうした行為を見かけることが多く、外の気温は低く寒いが、心はとても温まる光景である。根本解決には程遠いかもしれないが、こうした寄付の文化がしっかり根付いていることは、歩みは遅くとも、着実に一歩々々貧困をなくそうとする姿勢は根付いていくことだろう。

 とはいえ、ホームレスたちへの風当たりも強いことも確かだ。大手スーパーの周りにアンチ・ホームレス鋲が取り付けられたこともあった。ホームレスが店の側で座ったり、寝転んでしまうのを止めさせたかったのであろう。だが結局は世の中の批判に晒され、撤去することになったらしい。社会の自浄作用が働くとは、こういうことなのだと思う。

 

 渋谷区はどういった経緯でホームレスと、その炊き出しボランティアたちを公園から締め出す決定を下したのだろうか?どうして彼らを締め出すことを妥当と判断したのだろうか?自分たちが同様の対応をされたらどう思うか、考えたことはなかったのだろうか?そして、区の職員たちは自分たちがホームレスになることを想像したことがあるのだろうか?「ホームレスになることはない」と思っているとしたら、その根拠はどこから来るのだろうか?

 宮下公園がダメなら他の炊き出し場所を提案してもバチは当たらないはずである。別に税金を使うわけでもなかろう。それすらもできなかったのだろうか?いろいろと疑問は尽きない。

 身なりは汚いかもしれないが、ホームレスは人間である。人間であるなら最低でも人間として扱うべきであるし、ただ「締め出す」という対応では行政として失格ではないだろうか。

 本来であればどうしてホームレスとなってしまったのか、その根本原因調査と分析から始めるのが筋であろう。その原因は様々であろうが、国や行政機関は本来そうした人たちも人間らしい生活を最低限保証しなければならないはず。こうした「締め出し」はロクな原因分析もせずに、ホームレス個人の自己責任に帰結させようとする、いつもの歪んだ「自己責任論」が背後に見え隠れする。

 こうした貧困者への「自己責任論」が存在する限り、日本の景気は(幻想的に)回復しているように見えていても豊かさは全然回復していない。そもそも社会とは相対的な弱者が少しでも多く微笑んで暮らせる世の中であり、強者が無遠慮に高笑いできるような世の中では決してない。人の盛衰と善悪は本来全く関係のない事柄であるはずが、いつの頃からか「盛=善/衰=悪」という方程式が出来上がってきているのが腹立たしい。

 

 年の瀬であってもこうしたニュースが流れるのはなんとも「痛い」世の中であるが、来年もめげずにブログを綴っていきたい。