異国見聞私書録

異国から見たこと感じたこと気になったこと。そして時折テクノロジーのお話。

ブラック資本主義の先に見えるもの

 ブラック資本主義とは言い得て妙である。暗黒時代の再来と言ってもいいかもしれない。

新自由主義に代わる新語 #ブラック資本主義 - Togetter

 この頃よく思うのは、今の英国の姿は日本の未来像を少なからず映し出しているのではないかということだ。

イギリスにおける「アンダークラス」の形成

 

 ざっと英国の最近を振り返ると、サッチャー氏とその「チルドレン」たちが行った構造改革で「アンダークラス」と言われる、階級構造の底辺に位置付く人たちを作り出した。その人たちは働く場所を実質上奪われ、貧困層として世代間にも影響を及ぼしながら固着することになる。働くことを放棄、もしくは忘れた人たちが増え続けた。さらに並行して悪いことに、改革で教育予算を減らされたため、まともに教育を受けていない人たちが増産されることになる。履歴書一つ書けない、何のために働くのかさえまともに思考できない人たちがイギリスに多く蔓延したという。

 ここに来てさすがに政府も対策に乗り出したかに見えた。ニューディールと呼ばれる雇用政策で、ニート状態にあるアンダークラスを仕事に就かせようとする試みである。職業訓練も行われるが、その過程は初歩的な履歴書の書き方や面接訓練がメインであり、実践的な「手に職をつける」類いのものではなかった。また、職業訓練に出席しないものには福祉手当を削減するといったペナルティも課した。いわば半ば強制的に労働市場にアンダークラスを引っ張り出したとも言えるだろう。その結果、不安定で短期的な就労と失業を繰り返す安価な労働力が登場してくることになる。ここまで読み進めると全てではないかもしれないが、どこかの国となんとなく重なる気がしないだろうか。

 今の日本で失業率は改善しているようではあるが、問題はその内訳だ。速報値とはいえ、非正規雇用の割合が伸びていることが下記からうかがい知ることができる。

統計局ホームページ/労働力調査(詳細集計) 平成26年(2014年)7〜9月期平均(速報)結果

 一般的に非正規雇用の労働単価は買い叩かれやすい。もっと下品な言い方をすれば、安価な労働力としてコキ使うことができる。同一労働同一賃金などといった理想を無意味化した使い方が可能なのだ。失業率を数字の上では下げることができ、安い賃金で働いてもらうことができる、為政者と財界にとってまことに都合のよい存在と言い換えることもできるのではないか。

 

 ここで少し筆者の主観から見た現在の「英国像」を述べてみたい。過去のエントリーにもいくつか書いてあるのでぜひそちらも読んでいただきたいが、日本の将来を占う上で少しでも役立てればと思う。文脈上、あえてここでは英国の短所に重点を置くが、ここで取り上げていない長所もたくさんあることを予め断っておきたい。

 過去に仕事をしてきた日本や米国と比べるとであるが、英国人の多くはどこか腹の底に諦念が常に流れている気がしてならない。自分の責任の範囲内のみ動き、また時には範囲内であっても、責任を放棄しようとする傾向がある。他者と仕事をする上で責任分岐点が曖昧なグレーゾーンは必ず生じるものであるが、そうしたところを自らフォローしようとする姿勢は感じられない。そして誰がそのグレーゾーンを扱うかで結構無駄な時間を使う(モメる)のである。

 またこれは個人にかなり依存するところもあるが、期限や時間にルーズな人の割合も多い。自分で立ち上げた会議に時間になっても来ない人もいる。ほかにも荷物の受け取りや配送などは時間通り来た試しはない。当然、「遅れる」という連絡など期待できない。例えあったとしても、決まり文句は「電車が遅れた」と「車が故障した」だ。

 頼んだことはこちらが覚えていないとまず忘れられるか放っておかれる。逐一状況をこちらからフォローしておかないと物事は進まないことが多い。そして向こうの言い訳は「優先する案件があって忙しかった」だ。どんなに贔屓目に見ても休憩所でくっちゃべっている時間のほうが長いのに。

 こうした出来事が立て続けに起きるので、はじめは筆者が日本人だから舐められているのかと思った。ところが英国人同士でもこうしたことでモメている場面に遭遇することは少なくない。いろいろ難しい言い回しで「丁寧な」文句は言い合っているようなのだが、最終的に落ち着くところは悟りにも似た諦観顔だ。

 

 筆者は長く英国に住んでいるわけではないので、「英国像」を誤解している部分も多いだろう。コミュ障から生じる単なる嫌がらせを受けている可能性も否定できない。ただ、今まで遭遇してきた現象から合わせ見ると格差や階級から生じる諦観の連鎖はありうるのではないかと思っている。どう頑張っても「頭打ち」の社会構造では、なるべく自分から動くことは控えるよう、誰も彼もが保身に走るのもある意味頷ける。日本は今、そのスタートラインに立っているのかもしれないが、できればそのような連鎖からの「棄権」という選択肢も残しておいてほしいものである。