異国見聞私書録

異国から見たこと感じたこと気になったこと。そして時折テクノロジーのお話。

G型/L型学校制度は社会に害しかもたらさない

 G型だかL型だか知らないが、意味不明な教育制度がまた話題となっているようだ。

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/koutou/061/gijiroku/__icsFiles/afieldfile/2014/10/23/1352719_4.pdf

 これは一体なんなのだろうか。ヒューマン・リソースを「選択と集中」の発想で教育システムに取り入れていこうということなのだろうか。無駄をなくした、市場原理に則した職業訓練的な教育でグローバル経済に対応して行こうという計画なのだろうか。

 そもそもこうした議論が真剣に政府内で行われることからしてかなり痛い。こういう資料が堂々とインターネット上で公開されてしまう現実が先行きを不安にする。この程度のことしか思いつけない知性が、政府の資料として世界中に露呈されていることを心配する。日本語で書かれているから他国からは読まれることなどないだろうと思っているのだろうか?それとも他国からも読まれたいと思っているのだろうか?どちらにしても救いがたいおめでたさである。

 

 この資料を読んでいくと英語教育に力を入れていきたいことが読み取れる。英語関連の教師には「TOEICの点数獲得教育能力」を上げてほしいのだそうだ。はっきりいってこんなことをしても無駄だ。TOEICの点数を上げたところで英語で意思疎通できる人物は育たない。TOEICの点数取りがうまくなる人物を量産するだけである。そもそも日本語で思考でき、意思疎通する教育すらままならないのに、TOEIC点数向上教育に力を入れてどうするつもりなのだろうか。

 以前、以下のブログを書いたことがある。

英語は習うな。まず意思疎通を習え。 - 異国見聞私書録

 異国でのコミュニケーションで最も必要とするのは、意思疎通しようとする意思である。英会話は二の次だ。基本ステップはどこまで自分をオープンマインドにできるかにかかっているが、日本人の多くはこれを苦手とする。なぜなら飲み会以外で自分を出せる訓練はほとんどしてきていないし、自分の思考を日本語ですらまともに表現できる人は多くないからである。

 筆者が海外生活で痛感するのは、自分の思考はまず母国語で練られ、それから英語に変換されていくということである。もちろん海外で生活する日本人の中には英語でいきなり思考できる人も少なくない。だが、例外なくそういう方は長く異国の環境下にいるからこそできる芸当であって、ほとんどの日本人にそれを求めるには無理がある。多くの人はまずは日本語で考えをまとめていくしかない。

 異国の人とどうなじみ、そして日本語でどう自分を思考し表現できるかの教育をまず始めないことには、TOEICの点数取りや「観光業で必要となる英語」などいくらやっても無意味である。いや、無意味どころか異国の人からは思考もまともにできない「薄っぺらなつまらない人間」と見られる可能性が高く、害毒を振りまく教育制度以外の何物でもないだろう。

 

 G型/L型に学校形態を分けているところにも問題がある。この資料を読んだとき、思わずオルダス・ハクスリーの「すばらしい新世界」を思い出した。未来のディストピアを描いたこの小説は人間の階級分けを厳密に行い、究極の格差社会を築いている。おそらくこの資料にある教育改革が実行された場合、すばらしい新世界」と類似した社会形態になるのではないか。格差社会の問題が叫ばれ、その是正を求められているなか、それと逆行する「格差強化社会」が固着化することだろう。

 資料には触れられていないが、最終学歴がG型とL型の学校では将来的に大きな収入差が生じることは想像に難しくない。高度な教育には基本的にお金がかかるものであるが、L型校出身者の子どもにはL型校の選択肢しか事実上残らなくなる可能性が極めて高い。現代においても教育格差はあるが、G/L型の学校形態を取ればますます格差は大きくなり、その上G/L型間の風通しは悪くなるだろう。

 人間社会に階級や格差が生じることはある程度許容すべきだと筆者は考えるが、それには但し書きが付く。それは階級・格差間に「風穴」があることである。家柄や生まれ、血統などで固定化された階級・格差ではなく、自助努力によって上位の階層に登ることができる風穴のある階級・格差である。

 G/L型の学校形態では、はじめは風が通るような仕組みを作るだろうが、時間が経過するにつれてその穴は塞がっていく可能性が高い。教育は継続性が大切な要素となることから、基本、長きにわたって資金を必要とするものである。特に高度な教育を受けさせるとなればその資金量は大きなものを必要とする。その資金を継続提供できる者達は限られてくるに違いない。その結果、生まれた育った家に、果ては実質上「血統」によって固定化された教育システムにつながっていくことを危惧する。

 一部の特権的な人間しか享受できないような教育システムは21世紀社会には必要ないと筆者は考える。このG/L型の学校制度ではそうした特権的な階級を今よりもさらに恣意的に固定化する制度であり、公正な教育を奪い去るものではないか。 格差を今以上に広げようとするこうした改革には賛成しかねる。