異国見聞私書録

異国から見たこと感じたこと気になったこと。そして時折テクノロジーのお話。

家事能力は人間としての基本能力だという件

断っておきたいが、筆者は男である。

「家事に最も協力的」な男性はノルウェー人、日本は男女差顕著=OECD | Reuters

頼むから男はこれだけはわかって欲しい

だが、筆者の知る一般的な日本人男性の家事能力は壊滅的だと思う。

日本人社会では男性と女性の役割分担に、強固な区分けがあるように思える。お互いにできないことを補う形での役割分担であれば、別段大きな問題はない。だが家事に少しの興味を持ち、わずかな時間を割けばできることをあえて「しない」ことによる「役割分担」はいかがなものだろうか。

例えば料理。火の使い方や包丁も握ったことすらないような日本人男性はゴマンと存在する。一人暮らしであればまだある程度、看過できるが家庭持ちの場合は大きなリスクを背負うことになることを覚悟するべきだ。母ちゃんが病気になり、子どもを食べさせるのに父ちゃんが何もできないでは格好がつかない。コンビニ弁当などで済ます手段も当然あるだろうが、母ちゃんの病気が長引けば、子どもの栄養の偏りや食事における教育にも不都合をもたらすのは避けられない。また「食物」が「料理」に変化していく過程を子どもに学ばせることは、人の生活の営みを教えていく上で大切なことであると思う。これはできる限り両親で子どもに姿勢を示していくべきだ。

子どもに親の片方がテレビを見てサボっている姿を見せつけ、もう片方が懸命に料理をしている姿を晒しているのでは、子どもの視点からすれば不公平に映っても仕方がない。どんなに「父ちゃんは外で一生懸命働いている」と言ったところで、子どもは目前の現実を重視する。女に生まれたことを呪い、男に生まれたことに優越感を持っているようでは家庭の不和、ひいては偏狭な社会しか形成されない。

 

最近思うことに、「人は生活する」ということを重視する社会のほうが住み良いということだ。あたり前のことを書いているが、どうも現代日本はそこを見失っているような気がしてならない。「人は仕事をする」ことが最重要視され、その他のことは二の次として扱われていないだろうか?経済活動の伴う「仕事」をしていない人たちは軽んじられているのではないだろうか?その結果、「家事などは○○がやるもの」と疎んじ、会社での仕事はできるが、生活力のまるでない偏った人間を大量生産しているのではないだろうか。

「人は生活する」ということを重視する社会では、仕事力への期待は少ないかもしれないが、人として生きていく力は確実に育まれる。生きていく上での基本が出来ている人間は、応用力も磨かれていく。そして、ひいては魅力ある社会形成が期待できると思う。

「人は生活する」上で避けて通れないのが家事・雑事だ。その処理が一人前にできてこそ、社会のスタート地点に立ったと言えると思う。偉そうに書いている筆者にそれができているのかって?その判断はうちのカミさんに今度聞いて見ることにしよう、そうしよう。