異国見聞私書録

異国から見たこと感じたこと気になったこと。そして時折テクノロジーのお話。

日本と欧米の仕事行動様式の違い(システム編)

日米の差異についていろいろ述べられており、なかなか共感できるところがあって面白い。ちょっと英国/米国での経験も付記したい。

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日米比較 行動様式編

筆者はシステム関連の仕事を現在英国で行なっているが、米国でも少々働いていたことがある。英国と米国でも差異を感じることがあるが、日本との差異に比べたら大きな開きはないと思う。それはやはり文化背景に大きく起因しているところがあると思う。ここでは仕事に関連した経験を中心に述べて行きたいと思う。

 

日本人のシステムに求める要求の高さは、ほかの国と比べても群を抜いているのではないだろうか。定量的に調べた結果は見たことはないが、システムトラブルが起きた時の反応を見ればおおよそ推察できる。

例えば、銀行のATMが使えなくなったぐらいでは、こちらではまずニュースになることはない。これは米国でも同様であったと記憶している。長期に渡って使用不可であれば話は別だが、短期であればお客側が「使用可能になるまで待つ」が基本姿勢だ。カードや小切手社会なので、別決済手段が用意されていることで、社会的混乱をきたすことは非常に少ない。

停電などもそうである。米国では特にそうであったが、小規模の停電はよく起きた。当然、信号機も使えなくなる。だが、十字路への進入手順が定まっているので交通の混乱が起きることは極めて少ない。仕事においても、「今日は仕事にならねぇ」といって早く帰る人が大半であり、電源が復活するまで会社にいる人のほうが珍しいぐらいであった。

システムを提供する側のトラブルにおける姿勢の相違にもはじめは驚いた。そもそも日本で言う「トラブル」を「trouble」と言うことは少ない。「incident」や「problem」と表現することが多く、「迷惑、困難、悩み、苦しみ」など、自分たちの仕事へのネガティブな意味を含んだ「trouble」はあまり用いられない。日本人の筆者からすると、これはシステム障害を「自分たちの痛み」として捉える姿勢が欠如しているのではないかと今だに考えることがあるが、仕事への取り組み姿勢まで口を出すことは控えるようにしている。業務代替手段が考えられるのであれば問題ないからだ。

仕事の役割分担が明確に定まっている欧米の仕事場では、担当者が休みなどでいない場合、その担当者が出社し、対応するまで待つことになるのが基本姿勢だ。もちろんトラブルの規模にも寄るが、業務に大きな影響がない場合は、その間一部システム機能は事実上使用不可能の状態になる。手作業で補うか、代替ツールでその場をしのぐことが多い。休みの間に同僚に引継ぐという概念は弱く、引き継ぎ資料などを残すことも稀である。

障害報告も大規模な場合、または経営層からの強い懸念がある場合は行われるが、それ以外であればうやむやになるケースがほとんどだ。以前にもブログにも書いたが、障害報告書を作成するより、ユーザ側の危機対応能力に期待するところが大きい。これは別問題ではないかと思うのだが、なんとなくそうなってしまっているところがある。

障害報告書は必要なものなのか? - 異国見聞私書録

 

スケジュールに対する考え方も異なる。日本では日にち単位で細かくスケジュールを詰めるが、こちらでは3月中旬や、今年の終わり頃、といった抽象的な表現に終始する。具体的な日付が出てくるのは本番1-2週間前だったりするので始末が悪い。こうなると納期が伸びるのは当たり前で、「約束と違う!」と騒いだところで嵐のような言い訳が降ってくるだけである。そもそもマシンなどを納品する外部ベンダーや関係業者も万事そのような調子なので、詳細なスケジュールを組もうにも組みようがないという現実がある。上記で紹介した記事の米国行動様式部分を引用するが、これは欧米で仕事をするにあたってすごく実感できる行動様式の違いではないだろうか。

翻意に抵抗を持つ人は少なく、一つの判断に固執し、長期的にその判断に拘束されることは余りない。「考え方が変わった」「あのときはそう思っていたが、時間が過ぎて今はこう思う」というようなことは、時間の経過と共に、また、条件や事態の推移の中で、当然起こりうる自然な結果であると考える。だから、翻意自体に抵抗は全くない。むしろ、合理性と柔軟性の表われであると考える。そのため、結論や判断は早い。場当たり的にものを考え、結論を出し、判断する。そして、成り行きと現実を見ながら、修正を加えていくというやり方のため、翻意は当然の帰結ということになる。その結果として、口約束などは守られないことも多い。 

これらに文化的な摩擦は当然あるが、良い/悪いの問題ではなく、理解の問題だと思う。互いの違いをどう表現し、伝え合い、その中で如何に着地点を見出していくかにことの本質はあると思う今日この頃、そして明日である。