異国見聞私書録

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人治国家を具現化するための教育勅語

 どこかの幼稚園で、教育勅語を暗唱させていたとして話題になっているが、この問題に少しでも関心があるならば以下の国会質疑は見ておいたほうがいい。

「教育勅語」理解の決定版!横路孝弘議員の稲田防衛大臣を諭すような国会質疑が素晴らしい 【前編】 - シャンティ・フーラの時事ブログ

 私立の幼稚園で暗唱させている分には、はっきり言って別にどうでもいい問題である。親の教育方針などがあろうから、たとえ世間からいくぶん異常な目で見られることはあっても、勝手に暗唱していればよい。だが、そこに公的な便宜が図られていたのであれば、問題は大きくならざるを得ない。一私立の学校の運営に対して、なぜ国や公的機関が協力しなければならないのか。

 

 上記と同様に問題視すべきなのは、教育勅語を良しとし、積極的に教育に取り入れようとしている公人たちのことである。彼らの強調する「今日でも通用する普遍的な内容」とは正反対なことを自ら行っていてとても興味深い。なぜ幼稚園の理事長との関係を全力を挙げて「なかったもの」にしようとするのか。その姿勢は、「朋友相信シ」ることとほど遠いとしか言いようがない。

 この事件で生じた関係者各人の一連の「行為」をつぶさに見ていくと、教育勅語を積極推進したい人たちにとって、その言葉の裏にある精神などどうでもいいことなのだということが見て取れる。特に親孝行や「朋友相信シ」などを強調しているが、そんなことは自ら実践できていないことからも、重要視などしていないことは一目瞭然だ。

 ただ、おそらく彼らがもっとも重要視したいのは「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」の部分で、かつてもっとも問題になり、そして戦後否定されてきた部分である。もしこれから先、教育勅語が「正当」なものとして見直しが行われた場合、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」の部分が削除されるかどうか見つめてみるといい。彼らはこの部分を死守しようとすることは間違いない。今はあたかも重要視していないフリをしているが、この部分を削除するとなると、教育勅語の持つ本来の意味がほとんど薄れてしまうからだ。世間受けさせるために、一部文言を変更する可能性はあるだろうが、「緩急アレハ義勇公ニ奉シ」と同義の文章は必ず載せてくることは間違いない。

 なぜこの部分がそんなに重要かといえば、国家として国民を人治により統制するにはこの文言は不可欠だからだ。 もっと下品に言えば、国民を都合のいいようにコキ使ったり、生殺与奪権を握るための方便として必要になってくる。見かけ上は法治国家とし、その実は人治国家として運営させるためには、こうした小賢しい工夫は必要不可欠なのだ。

 人治国家とは要するに一部の為政者がその国の民を好き勝手に扱うことである。法に明記されていてもいなくても、その時の為政者の思惑に従って動いてくれる民が欲しいのである。天皇という地位は昔からそのように利用されてきたし、戦後この70年間は薄らいでいたが、またその亡霊が蘇ってきたということなのだろう。

 

 人治国家として運営できればエスタブリッシュメントにとってこれほど好都合なことはない。証拠などなくても投獄できるし、気に入らない人物であれば処刑も容易い。とはいえ、いきなりこうはならなくとも、身近な例では、今問題となっている長時間労働なども不問にされる可能性が高い。現在の労働規制強化案についても、筆者から見ると十分骨を抜かれている案であるが、このまま人治国家化が進めば、労働時間規制そのものがなくなる可能性も否定できないと思っている。究極的には国民は休息なしに働いてもらうことが、権力者たちにとって好都合だからだ。

 「労働時間規制を撤廃するのは国全体としての生産性を向上させることであって、国民を疲弊させることではない」との反論も聞こえてきそうであるが、人治国家が行き渡ると生産性などというものは二の次のこととなる。つまりは生産性向上という「結果」を求めるのではなく、生産性向上に邁進しているという「姿勢」を求めるようになる。その姿勢の結果、過労死したのであればなおいい。後日、忠誠を示す美談として使えるからだ。

 人治国家において究極的に求めるものは、民の国に対する忠誠であり、その延長線上にあるのは国のための「死」である。「国のため」と書いたが、その実体は好き勝手行う一部エスタブリッシュメントの利益のために死ぬことを強要することである。そのような世界観を目指して、今日の日本は邁進している。これをどう捉えるかは読者に任せようと思うが、少なくとも言えるのは、このまま進めばいま当たり前のようにある自由を享受できなくなっていくのは確実だ。

 

 話を戻そう。この幼稚園の理事長と筆者の考え方や方向性は大きく異なる。だが、ぜひとも国会招致されたおりには頑張って証言していただきたい。筆者を含む世間からどんなに問題があると言われようとも、自らの信念を変えることなく、いままで理事長や教育勅語を応援してきた人たちが、どんなに薄っぺらで都合が悪くなるとすぐに「切り捨て」ようとする人たちなのか、ぜひ白日の元に晒して欲しい。彼らは自分の利益しか見つめていない人々であることを証明していただきたい。そして多くの人は、そんな薄っぺらな人たちのために、将来命を投げ出すのはまっぴらごめんこうむりたいと思うはずである。