異国見聞私書録

異国から見たこと感じたこと気になったこと。そして時折テクノロジーのお話。

会議のジレンマ

 そもそも会議そのものを嫌ってきた筆者だが、最近、仕事で日本人しかいない会議に参加するのがつらく感じてしまう自分がいることに気づいた。以前までは、日本語での会議は意思疎通がラクだと思っていたが、最近はどうもそうではないらしい。このストレスと違和感はいったいどこからくるのか、少し考えてみた。

  • 会議の論点と直接関係のない参加者が多く出席する
    全然知らない、もしくは無関係と思われる部署からの参加者がいる。話の内容がきちんと伝わっているかどうかも不明だ。黙って聞いているならともかく、ちょくちょく趣旨と関係のないことを口出ししてくる人もいるので、会議の方向が少しづつずれていく。
  • 会議の論点がずれていく
    上記とも関連するが、重箱のスミをつつくような質問や、目的がよくわからない質問がされたりする。これが繰り返されるうちに当初会議の論点であった事柄からはずれていき、時間だけが無駄に過ぎていく。
  • 会議配布資料が多い
    綿密な計画などを記載した資料を多く配るが、1時間やそこらで読み切れる量ではない。当然ポイントを絞って会議は進められていくが、それならはじめからポイントを絞った資料を配ればいいだけの話である。

 あげていけばキリがないが、これらを繰り返されるとどうもストレスが溜まっていく。会議の6割から7割以上が必要のない内容なのではないだろうか。時間通りに会議は始まるが、結局無駄が多いので中身の薄い内容になってしまう。こういう会議は、たぶん寝てても仕事に大きな支障は出ないと思う。周りから顰蹙は買うだろうけど。

 

 一方で現地スタッフだけの会議だと丸く収まるのかというとそうでもない。時間になっても集まらない、突然中止になる、会議は主題に集中して行われるが、資料がないことも多々あるので参加者の記憶に残らないことが多い。要はきちんと会議を引っ張る人がいないと「雑な会議」に終わるのだ。

 会議の席で決まったことであっても、その後のフォローを随時していかないことには話は進まない。欧米の仕事ではなんでもプロジェクト単位にし、プロジェクトマネージャを立てて仕事を進めたがるというが、フォローをする役割の人がいないとすぐに忘れ去られてしまうからだろうと筆者は勝手に思っている。

 

 比較的うまく進むと感じることが多いのは、現地スタッフと日本人スタッフが半々ぐらいに混ざっている状態での会議である。もちろん英語での意思疎通は不利な面も多くあり、たびたび認識確認を互いにするため、時間もかかることが多いが記憶に残るかたちで終わると思う。大雑把さと繊細さがうまく組み合わさるというか、うまくブレンドすれば話はテキパキ進む。ただ、これは互いの利害が大きく乖離しないことと、信頼関係がそれなりに出来上がっていることが前提にある。現地と日本とで対立状態にあると、まず話は進まないことは言うまでもない。

 英語での会議というのもある一面、好影響があるのかもしれない。英語で重箱のスミをつつくような細かい質問を逐一浴びせるというのはなかなか大変だ。必要な質問に絞って考えるので、論点がずれることは少なくなるのではないだろうか。

 ただ筆者はどこかの会社のようになんでも英語での会議を推奨しているわけではない。不必要なところまでわざわざ英語化する必要性は全くないと思っている。母語で考え、相談し、伝えていくという作業は絶対に必要だし、別に英語を使用しなくとも会議の改善方法などいくらでもあるからだ。

 

 いろいろライフハックなどで会議については語られているが、これはという正解はないのだろう。状況や参加者に応じてそのやり方を変えていくしかない。いつまでも同じやり方にこだわっていては時間が無駄に過ぎていくだけである。