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異国見聞私書録

異国から見たこと感じたこと気になったこと。そして時折テクノロジーのお話。

民営図書館という「焚書」モデル

 この記事を見て戦慄が走ったのは筆者だけであろうか。

 「図書館モドキ」。こんなものが全国に普及してくればどうなるか想像したことがあっただろうか。来客と収益さえあればいい、という市場原理に従う主旨の図書館において、その本来の役割や機能は全くなくなったと筆者は見る。これはカフェや喫茶店の延長線上であり、海老名市は「知の集積場」としての図書館を放棄したと宣言しているに等しい。

 これが何を意味するのか。ものごとをネットからだけでなく、深堀しながら「調べる」場所を海老名市は一つ喪失したということだ。図書館は単に本を読む場所ではなく、知りたいと思うことの深淵をかいま見る場所だとも思う。この「場」を失くしたということは、知的作業をする人たちの場所を奪うということであり、今後は知識の表層のみ撫でることで満足する人たちが増加するということである。

 ちなみに筆者ならばこのような市に住みたいとは思わない。極論すればバカであることが当たり前でかつ良しされ、知りたいことを深堀するには遠出しなければならないような場所には、たとえ頻繁に図書館に足を運ばない人間であっても、住みたい気にはなれない。

 おそらく海老名市の図書館には来客数は年々増えていくだろうが、その客の質は反比例して年々落ちていくことが想像できる。当然、上記ブログで指摘されていることに対して、少しは改善されていくだろうがその本質は変わらないだろう。なぜなら、一般受けする本を置いておくことが来客を増やす手段であり、その結果「販売」を促進することができるからだ。企業が利潤を追求するのは当然の流れであり、人気のある旅行ガイドブックは増やしていくにしても、場所だけ取るだけであまり読まれない文芸関連の書籍などは今後処分されていく可能性も捨てきれない。

 

 冒頭に「戦慄する」と書いたのは、これが意図的に行われている可能性があると、ふと妄想したからだ。前回のブログでも書いたが、人々から正確な情報を遠ざける「工夫」がかなりの高頻度で行われていると筆者は考えている。この「工夫」の延長線上に今回の「民営図書館」もあるのではないかと思い至ったのだ。

 焚書という行為は古今東西、数多く行われたが、それはエスタブリッシュメントが人々から自分たちにとって都合の悪い情報を遠ざけるために行われた。ただ現代においてあまりに露骨に焚書を行うことはさすがに批判は大きい。現代社会はその意味において、焚書を行いにくく制度設計されていると思う。

 批判されずに、かつ合理的に「焚書」を行う方法を一部の権力層にいる人たちはかなり一生懸命に考えたのではないだろうか。その答えは案外難しいことではなく、身近にあったのである。人々の正直な欲望に従うよう図書館のあり方を設計し直すだけでよかったのだ。自分たちの欲望に対して正直に、「利用者の満足」を主眼におくという形で図書館が運営されれば、反対する利用者は少ない。

 当たり障りのない旅行ガイドブック、それに付随するおいしい食べ物、ちょっと性的満足もさせたければ風俗マップ、そしてそれらを眺めながらコーヒーも飲めて満足できる図書館。政治や思想といった難しく、そして都合の悪い本は人目のつかない、検索もしづらい閉架へ。皆さまには楽しく、おいしく、気持ちのいい本だけに触れていただければいいのです。満足度が高まること間違いなし。

 

 上記の文脈で考えていけば、このブログの内容はナイーブすぎることが見て取れるはずだ。確かに利用者満足型とアーカイブ型に分けるのは意味があるように思えるが、別に利用者満足型は図書館があえて行う必要はない。町の本屋さんが少し工夫をすればいいだけの話である。アーカイブ型が図書館の本質であり、それだけあれば図書館としての機能はほとんどまかなえる。民営図書館とその利用者はその意味を今一度考えてみるべきだ。

 

 今行われている「利用者満足型」の民営図書館は利用者の「わがまま」に応え、自分たちの収益を主眼に置いているだけだ。そしてこのビジネスモデルの真の受益者は誰なのか、世の中に起きているきな臭い事象と突合して考えていくことを忘れないでいたい。