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異国見聞私書録

異国から見たこと感じたこと気になったこと。そして時折テクノロジーのお話。

「喫煙場所」そのものに決定権は存在しない

thinking

 筆者はかつて喫煙者であった。喫煙場所についての考え方が以下に掲載されていたが、喫煙者だったころは、このスレッドを立てた人とまったく同じ考え方を持っていた。

楽しいことないかな : 【唖然】寿司屋で、俺「タバコスパー」→女グループ『席移動していいですか?』俺「ここは禁煙じゃないが?」→すると女達は・・・・・

だがある言葉と出会い、今は考え方が180度変わっている。たとえ喫煙可能な場所であっても、一人でも紫煙を嫌う人がいるならば、煙草を吸うことは遠慮すべきだと今は思っている。

 

 米国は言わずと知れた禁煙推進国であるが、公共の場はもちろんのこと、一部では自分の家の中でさえタバコを吸うことを禁じようとする動きがあった。喫煙者は人格的にも「下」に見られる傾向もあり、その嫌煙の徹底ぶりは病的でさえある。

 筆者はここまでやる必要はないとないと思うし、喫煙者にはルールを守っている範囲において、喫煙する権利はあると思う。ただ、喫煙者全員に考えてほしい言葉に出会ったのも、米国に滞在しているときであった。

Ashtray makes no decision

 どこで見たのか、正確な綴りも忘れてしまったが、このような言葉だったと記憶している。直訳すると「灰皿は決断しない」ということになるが、その含意は「喫煙可能とされる場所であっても、必ずしも喫煙して良いということではない」ということになる。「喫煙場所」が喫煙可能かの判断をするのではなく、あくまでその場に居合わせた「人間」に決定権があるという意味である。一人でも煙を嫌がる人がいるのであれば、その場での喫煙を避けるべきである、ということだ。

 そもそも喫煙できる人というのは、ある意味において強者の立場である。喫煙する/できるというのは、自分の健康を犠牲にできる余裕と覚悟があることになるし、少なくともタバコを購入する経済的な余裕も持ち合わせている。(現実には異なるケースもあるかと思うが、タバコを吸う/吸える立場にあるというのはそのような解釈も成立する)

 これは筆者の持論であるが、こうした強者の立場にある人間は、自分の権利をいたずらに振りかざすものではない。強者は権利あってもそれを振りかざすのではなく、その場をどう収められるかを考えて提案するのが本来の姿だと思う。それがたとえ自分に多少不利に働いたとしても、受け入れる余裕を見せられるのが真の強者である。

 

 そうした文脈において、引用したスレッド主の人間としてのウツワは小さい。自分の権利に固執し、自分のしている行為が他人の迷惑につながっているという事実までアタマが回っていない。

 こうしたウツワの小さい人間は世間に大勢いるし、ちょっとしたきっかけでいつでもウツワは小さくなる。かつて、(もしかしたら今現在も)筆者もそうであったように。

 自分と他者の置かれている状況と、それに伴う誰の権利を行使するのがベストな解なのか。それを常に照らし合わせられる人が一人でも増えてくれれば、そして自分も心がければ、世の中はもっと住みやすくなるのかもしれない。