異国見聞私書録

異国から見たこと感じたこと気になったこと。そして時折テクノロジーのお話。

見たいと欲する現実しか見ていない人たち

 少し前の記事だが、この事件についてはどう腑に落としていいものか、気になっていた。

はてなブックマークのコメントを見ると、暴力団を持ち上げるのはどうかとか、この美談だけ取り上げて暴力団の暗黒面には目を向けていないという意見が目立っているようである。筆者もこれらの意見には首を傾げながらも頷けるような気がしたが、どうも素直に納得できないでいる。

 

 はじめに断っておきたいが、筆者は暴力や恫喝によって事を解決していく手段に対して嫌悪と軽蔑感を持っている。法律で禁止されてのはもちろんのこと、それ以上にやり方として卑劣であると同時に、そうした手段に訴えること以外に知恵がまわらないことを露呈しているので、本来自分の馬鹿さ加減を大声で宣伝しているに等しいのだ。

 また暴力団が、単純かつ劣悪ではあるが、それなりの効果が出てしまう以上、こうした手段に訴えることはある意味、特定の人たちにとって「理にかなって」しまうことなのかなとも思う。ただ、テレビ番組や映画などで登場するヤクザ屋さんもそう描かれているし、ステレオタイプとしてこのような行動が行われることが我々の脳裏に刷り込まれているのもまた事実なのだと思う。

 

 どれだけの人が暴力団の実態を理解した上で話を紡いでいるのだろうか。どれだけの人が「裏付け」を取った上でこの「地域で知られる40代の暴力団員」について語っているのだろうか。「怖い風体」というミテクレで判断をしているという可能性は本当にないのだろうか。この記事を書いた記者自身、どこまで裏付けを取れているのかも甚だ怪しい。

 この記事を見る限りにおいては、暴力団と思しき人は特段悪いことはしていない。しつけのなっていない子どもたちから侮辱されたことに対して、抗議の声を上げただけと捉えることもできる。禿頭を侮辱されたことに対して謝罪を求めるという、そんなに珍しくもない光景であり、本来記事になることでも、喝采をあげることでもない。ヤクザっぽい風体と話し方から、関係者が勝手に必要以上に怯え、一方で必要以上に英雄視しているように筆者には見受けられる。

 

 どうもこういう風潮というのは暴力団以上に危険な臭いをはらんでいると筆者は思わずに入られない。はてなブックマークの人気コメントでも、事件とは関係のない憶測と、本人の思い込んでいる「暴力団」というステレオタイプで彼らを語っている気がしてならない。

 「多くの人は見たいと欲する現実しか見ていない」と語ったのは、かのカエサルであったが、この事例ほどこの言葉にすっぽり当てはまるものもない。登場する塾関係者、子ども、保護者、商店街の人々、コメントした人々、そしてこれを書いた記者を含め、みな各々が「見たい現実」の幻影を見ているのではないだろうか。そして幻影の演出者もまた、自分の醸し出す幻影に酔っていることなのだろう。

 

 こうした事件においては、「自分の見たい現実」という幻影に絡め取られることなく、事実を冷徹に見つめ、問題を分別して捉え、物事を多面的に考えられる思考の発揮が求められるところである。が、それがなかなかできないのが凡人である私たちの所以であり、それができたからこそ偉人は偉人たり得たのかもしれない。人の本質は2千年以上前と大して変わっていないことを再考させられるエピソードであった。