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異国見聞私書録

異国から見たこと感じたこと気になったこと。そして時折テクノロジーのお話。

人文系学問統廃合は時代に逆行する政策だと思う

politics thinking

 目先の利益ばかりになる人材ばかりを追い求めると、以下のような政策を取り出すのだろう。G型とかL型大学などといった暗愚な政策もその延長線上にある。

 シンギュラリティ、技術的特異点、2045年問題という言葉を最近よく耳にする。要は機械の知性が人間のそれを超えるときを示している言葉だが、そのようなことを信じても信じなくとも、本当に起きても起きなくとも、そう遠くない将来に人は自分の存在そのものについて、真剣に向き合わなければならない時代が来ると思っている。

 ビッグデータによる行動傾向分析や、遺伝子解析による個人の可能性や限界をつぶさに調べることは、もうすでにかなりの精度で完成に近づきつつあるはずだ。少なくとも将来における疾病の可能性を割り出すことは可能になっている。賛否両論はあるかもしれないが、少し前に女優のアンジェリーナ・ジョリーの乳房と卵巣の事前摘出は結構話題になった。これはある意味自分の未来予測であり、自分という存在の限界を目の当たりにすることにもつながってくるだろう。

 そのような事実に直面したとき、人文系の学問をほとんど経験していない人たちは、どのように自分の運命と折り合いをつけていくのだろうか。自分という存在や人の意識といった現象を深堀する方策を知らないまま育っていくと、その捉え方に影響を与えることは想像できる。学問の領域外、例えば宗教(捉え方によっては学問かもしれないが)でそれを賄うという手もあるかもしれない。自ら人文系の本をたくさん読み込んでおくというのも悪くないとも思う。

 ただ、そもそも人文系学問をおろそかにしてきた人たちは、その取っ掛かりの入り口さえ見つけることは難しいのではないだろうか。即戦型の学問だけを身につけ、疑問を持つことなくがむしゃらに働き、ふと気づいたときには機械でも行える要らない人材になっていた、というような悲劇は今でも珍しい話ではないようだが、それをさらに生むだけの結果につながりかねない政策ではないだろうか。

 

 自分自身と社会、そしてそれをとりまく世界との関わりを俯瞰し、位置づけを考える力を養うことができる学問が人文系の学問だと思う。理系の学問だけでは賄えないところは多くあるはずだ。データを集め、分析し、結果を公表するところまでは理系の知識で充填できるだろう。だが、その先において何を見出していくかという視座においては、人文系の知性が必要とされるものなのではないかと筆者は考える。

 

 これはあくまで持論だが、そもそも文系/理系として学問を区分けするのはどうなのだろうか。理系の天才と言われてきた科学者たちでも、同時に哲学に秀でた人たちも多いと聞く。言語をしっかり理解し、相手に伝える能力がないと、どんなに頭の中が理系の天才であっても埋もれてしまい、存在しないものと同等である。どんなに計算に秀でていても、出力結果を持続可能な未来ある社会へ還元する方法を考えられなくては、実り多いものとはいえない。

 人文系と理系の学問は関係していないように見えて、密接につながっていると思う。それを表面だけ見て、実利として役に立たないから削減していくという方針には賛成しかねる。人文系の学問にも理系と同様に投資はされていくべきだろう。