異国見聞私書録

異国から見たこと感じたこと気になったこと。そして時折テクノロジーのお話。

英国での働き方に思う

 正直言って筆者は英国人の働き方が苦手である。肌に合わないと言ってもいいかもしれない。その働き方は、期限は守らない、遅刻する、仕事の精緻性に欠き、やりかけの状態であっても平気で帰る、と例を上げたらキリがない。

 それらを問いつめれば、言い訳の嵐を英語のマシンガントークでまくしたてる。「できない言い訳」を語らせたら右に出るものはいないのではないかと思うほど口調は滑らかだ。一つや二つの例であれば、改善案をじっくりと練って時間をかけて、とことん「できるよう語り合う」こともやぶさかではないが、次から次へと来られたのでは一つ一つに太刀打ちするのは時間的にも体力的にも不可能なのである。

  その結果どうなるのかと言えば、あるところで手を打つしかない。否定的な言葉で表現すれば妥協かあきらめである。先方の思惑通りになってしまい腹立たしいこともままあるが、どこかで思い切りをよく「損切り」をしなければ前進しないので仕方がないことなのだと思う。日本や米国での仕事においても同様のことは多少あるが、英国での仕事では飛び抜けて多い気がする。

◆ 仕事で頑張ることは少ない

 全ての英国の人とは言わないが、多くの英国人にとって仕事とは「歯を食いしばって」まで頑張ることではないことが一緒に働いていると肌感覚で伝わってくる。あくまで人生を送る上での一生活手段に過ぎない。仕事でうまくいけばそれは結構なことだが、うまくいかなかったとしてもそれで全てが終りではない。別に仕事で「自己実現」などしなくとも人生は営まれて行くとどこか無意識下で理解しているのかもしれない。

 仕事をする上での契約によっても労働時間は縛られているのかもしれない。詳しいことは知らないが、週何時間以上働いてはならないという法律に基づいて労働契約がされていることも想像できる。産業革命時代に辛酸を舐めさせられた労働者たちがそのようなルールを構築したとしても特段不思議ではなく、ある意味彼らの工夫なのだろう。

 反対に家族と過ごす時間はとても重要視する。仕事中に家族と長電話することも珍しくなく、それを咎められることも少ない。日本人の働き方からすると少し迷惑な光景であるかもしれないが、それを咎めている日本人もまた見たことはない。

◆ 「人ドリブン」な仕事観

 こうしたことからも共に仕事をする上では、その価値観の違いとして、彼らのやり方として、それをある程度受け入れながら仕事を回すしかない。人生の中で仕事にどれだけ重きを置くかは彼らの自由でもあり、ルールでもあるのだから。日本人が持つような仕事に対する一律の価値観は彼らの中にはないし、また日本人の仕事のやり方を彼らに強制するのも間違えていると筆者は信じている。

 しかし日本での仕事のやり方に慣れていると、実際問題として仕事はやりづらい。この点についてはいつも悩むことであり、日本と協同して仕事をする上で最も理解してもらえない部分でもある。

  数年間、彼らと一緒に仕事をしながら見えてきたのは、彼らは「人あっての仕事」という根っこの価値観を強く共有しているということだ。人は生活をするために仕事をするものであって、仕事を回すために人が存在するというわけではない。社会生活の利便性が多少不便であっても、人を中心においた生活形態であると思える。より人間らしい生活を営もうとする「人ドリブン」な仕事観は少なからず伝わってくる。

 反対に日本では「仕事ドリブン」なやり方で、仕事を回すためには多少個人の時間を犠牲にするのは仕方がないという慣習が存在する。自動販売機が各所に存在し、24時間営業している店が随所にある。社会生活的な利便性は圧倒的に英国と比べて上であるがその背後にある、「人としての生活」が大きく犠牲にされていることを忘れてはならない。働いている個人の事情よりも「社会的利便性」が重要視されている社会であることは周知の事実である。

◆ 「なぜ働くのか」が浸透している

 どちらの働き方が良いとか悪いとかの問題ではなく、その地域に住む人々が、個々人が考えながら選んでいく問題である。ただし道理で言えば、筆者には苦手で文句は多くあるものの、英国の仕事観のほうが理にかなっていると思う。「なぜ働くのか」という根本的な疑問に回答を見出そうとする姿勢を忘れることなく働いていると思うからだ。

 その結果の不都合についても多少は目をつむろうという姿勢も、今はある意味、寛容さとして捉えることもできるようになってきている。適度な「テキトー」さは社会に余裕をもたらすのかもしれない。利便性は低くとも英国の社会は紛いなりにも回っているのだ。それは今の日本に最も欠けている点の一つでもあると思う。