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異国見聞私書録

異国から見たこと感じたこと気になったこと。そして時折テクノロジーのお話。

未来を見据えた学習とは

 流石、羽生氏だというべきか。将棋の世界でも情報技術の進化スピードに敵わなくなってきている中、コンピュータへの恐れというよりコメントからは楽しみや余裕さえ垣間見える。コンピュータの進化にわくわく感を隠せない様子だ。


羽生善治「コンピュータ将棋により人間が培った美意識変わる」│NEWSポストセブン

 

 実際に将棋を指してみないと本当のところはわからないが、羽生氏とコンピュータが勝負した場合、まだまだ羽生氏に分があるような気がする。彼からはコンピュータには負けられないという悲壮感は漂ようことはなく、どちらかというと楽しみにしている余裕が感じられるからだ。

 その余裕は、彼のその群を抜いた創造性が背景にあるのではないか。筆者のような凡人には、将来コンピュータに職を奪われるのではないかとか、ターミネータのように人類が支配されてしまのではないかと暗い妄想ぐらいしかないが、彼の思考の中では大きく異なるようだ。

 おそらく非凡な創造性を発揮できる人たちにとって、情報技術が極度に発達した未来は、機械と人との間で創造性を互いに高め合う、健全な意味での競合相手と映るのかも知れない。それはきっと知的好奇心を刺激する楽しい世界であって、凡人の恐れおののく世界とはほど遠いものなのだ。

 創造性の中に身を置ける人たちは、自分の専門とする世界だけに拘泥しているだけではおそらくやっていけない。自分の世界を広げるためには、常に異なった世界にもアンテナを張っている。その目的の糧になるものであれば、貪欲かつ柔軟に取り入れていく「寛容」さにも似た柔らかな思考が必要なのだと思う。そしてそれ以上に必要なのは、目的を見失わない強靭な「芯」にも似た何かを持続させることだ。

 

 最近気になることで、目的よりも手段にフォーカスされている話題が多いことだ。その一つにインターネット界隈でプログラミングについて何かと語られることが多い。学校での教科に取り入れるとか、日本史と入れ替えるほうがよいとか、いろいろと言われているが、プログラミングはあくまで一つの「手段」に過ぎないということを忘れられていないか。

プログラミングの勉強に何度も挫折してしまう。その唯一の処方箋は目的を持つこと。 - 計画的無計画

 このエントリーには筆者はとても共感できた。目的なく漫然とプログラミングを学んでも、一部の天才肌やオタクの人には楽しいかもしれないが、ほとんどの人にはピンとこない勉強になってしまう。まず、何かしらの目的を楽しく、長く保てる訓練からはじめないことには、いくらプログラミングを習ったところでそれは血や肉とはなりえない。

 もちろんプログラミング言語を極めるという目的があってもいい。プログラミング言語に対して情熱を保ち続け、自分の世界と創造性が広げられるのであればそれは立派な目標だろう。ただ多くの人にとってプログラミングはやはり「手段」であり、「目的」になることは少ない。個々人の目的を確立しないまま、手段だけ先行して学習させていくのは、英語教育のようにいつか来た道をまた歩んでいる気がする。

 

 目的を見いだせず手段だけに着目することは創造性の伸び代に限界をもたらしオタクや、うまくいっても専門バカの世界にとどまってしまう。狭い世界の専門性にとどまれば、いずれ広がる創造性に飲み込まれていく。手段が目的を上回るということはない。手段に拘泥するから、未来が暗く恐ろしく映るのかもしれない。

 社会にイノベーションを起こせるような「目的」を見出していくには一見地味で利得の少ない学習を積み重ねていくしかないのではないか。自分の現在立っている「場」を空間と時間の観点からしっかり認識した上で、目的を見出していく以外に方法はない。それには今まで歩んできた道である歴史や、それをどう咀嚼し認識すればいいかを体系的整理できる能力を養う基礎哲学などが役立つと思う。もちろん森羅万象との対話言語である数学も忘れてはいけない。利得には直結しないが、いずれも思考力を鍛える上では必要な学習だ。

 

 プログラミングや外国語を習得することも大切であるが、目先の利得の観点から「手段」として習得しようとする動機が強すぎる。おそらくそんな軽薄な認識ではこれから将来に起こりうるテクノロジカルシンギュラリティなどの大きな変革に耐え得る人間は少なくなる。何を学ぶかに価値を置くのではなく、なぜ学ぶのかを考えられる人がこれからは必要になると思う。