異国見聞私書録

異国から見たこと感じたこと気になったこと。そして時折テクノロジーのお話。

差別と経済成長の親和性について

 差別問題をここのところ取り上げてきたが、今回もまた記載する。そろそろ飽きてきている読者にはご容赦願いたい。

 曽野綾子氏に直撃インタビューを行った放送の中で気になる部分があった。ヨハネスブルクに駐在経験がある白戸圭一氏が語っていたことである。


2015年02月17日(火)「曽野綾子氏のコラムが波紋、改めて考えるアパルトヘイト」(直撃モード) - 荻上チキ・Session-22

 もう録音のリンク先は消えてしまっているが、放送の後半で白戸氏が語っていたことだ。アパルトヘイトが南アフリカで認められてしまっていたのは、なにも南アフリカのみが積極的に差別政策に対して肩入れをしていたからだけではないらしい。先進国が積極的にではないにしろ、アパルトヘイト政策を支持していたからだというのである。

 それは経済的な側面において、黒人たちを低賃金でダイヤモンド鉱山などで働かせるために、積極的な支持はしないにせよ、差別を黙認している状況が続いていたというのである。安い労働単価の恩恵を得るためには差別も時にはやむを得ない、経済を回すという行為の前には差別は必要悪である、という下心がここから見え隠れする。

 

 もちろんこれだけが差別を容認していた背景ではない。だが曽野氏のコラムや、現在の日本社会を見るにつけ、心配になってくる話ではあると思う。

 そもそも曽野氏のコラムも、はじめは異国からの労働者を日本に受け入れる件から始まっている。ある意味、経済活動に直結していく問題なのである。彼女のコラムから垣間見えてくるのは、経済成長させることと差別政策は一歩間違えると、とても親和性の高い、世の中をまわすダークな両輪として存在し得るということだ。

 お金を稼ぐことを至上命題としている経営者たちを見てみると、やはりそれは垣間見える。俗にブラック企業などと呼ばれる経営者たちに共通するものは、人をモノとしてしか考えず、ほぼ奴隷状態で人を働かせ、食い物にすることだ。明らかに通俗概念からかけ離れた、時には違法行為も辞さず、一般的な会社とは異なったある意味「差別化」を図った働き方を従業員に対して強いる。その「差別化」をすることで、業績を伸ばしているブラック企業は決して少なくないのだ。

 

 経済をいかに活発化させていくかを考え、実行していくのは社会としてなくてはならないことであると思う。ただし、それは大前提として人がモノとして扱われるのではなく、人として生きていけることが保証されている上でのことである。

 差別行為までも容認する「規制緩和」で回す社会には必ず歪が生じる。アパルトヘイトが瓦解したあとでも多くの血が流れたように。一度、差別容認を土台とした社会を創ってしまうと、その回復には多くの血を流す必要が生じると言い換えることもできる。

 

 人は誰しも差別意識を意識/無意識的に少なからず抱えているものである。一般的な大人ならば一度は必ずどこかで差別をしていると言い切ってもいい。そして少なくない人の本音は、自分の中の差別意識を容認したいのだと思う。現に曽野氏のコラムは、おおやけでは「言えないこと」を代弁してくれたという声もあるほどだ。

 だが、そうした暗い「心の甘え」をおおっぴらに容認するようでは、人は精神の荒廃を避けられない。たとえ建前であっても差別意識を制御するよう心がけることで、人ははじめて前に進んでいくことができるのではないだろうか。