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異国見聞私書録

異国から見たこと感じたこと気になったこと。そして時折テクノロジーのお話。

差別に対する意識と無意識

living abroad

 曾野綾子氏の弁解記事を読んだ。音声インタビューも聞いてみたが、おそらくもうこの人は手遅れのレベルに達してしまっている。

荻上チキによる曽野綾子氏へのインタビュー書き起こし - さかなの目

区別と差別の違い

 区別と差別についての違いについて理解していない人は多い。そもそもこの二つにどの程度の「差」があるのかも怪しいものだが、差別主義者が好んで「区別」にしたがるロジックでもあることを忘れてはいけない。

 差別なのか否かは、それを受け取る側の判断によるところが大きい。相手側がその表現を不快と感じた場合、表現者が「区別」のつもりでも「差別」に変わる。恣意的に「差別である」と利用される場合もないわけではないが、今回の件に対しては世界中で取り上げられ問題となっていることもあり、それには該当しないと考えられる。

 異国の者同士、異文化が入り混じる中、ひとつの国で生きていくのは確かに難しい。ただそれは衝突と妥協と融合を重ねながら 、どう互いに折り合いをつけていくかという別問題なのである。その中で差別が容認されるかのような考えで、文化融合を図ろうとすることは、矛盾する政策であるとともに、多くの国では不快なこととして捉えられるのは間違いない。それ故、今回の件は大きく世界に取り上げられることとなったのだ。

なぜ「アパルトヘイト」なのか

 前々回のエントリーでも取り上げたが、本人がどんなに「差別的意図はなかった」と弁明しても今回は三点においてそれは他者、特に諸外国からはそう承認されない。それは故マンデラ氏が釈放された日に、わざわざアパルトヘイトを例に持ち出し、その政策の一つである居住隔離が部分的であるにしろ機能していたことを示唆していることだ。

 過去に曽野氏は9回も南アフリカに行っているらしいが、作家である彼女の洞察力を持ってすればアパルトヘイトがどのような位置づけで世界に認識されているかわからないはずはない。アパルトヘイトの文脈で居住隔離を肯定するような表現を用いれば、それが世界でどう認識されるか知らないはずはないと思う。

 インタビューの中で、しきりにリトル・トウキョウなどの自然発生的に出来た日本人居住地域を取り上げているが、ならばなぜそれをコラムに例として掲載しなかったのか。なぜホロコーストに次いで悪政策とも言われる、アパルトヘイトをわざわざ例に選んだのか意味がわからない。

差別に対する無意識

 話は少し変わる。異国の地で現地スタッフと日本人と働いていると、よくあるのが日本人同士で話や仕事を進めようと勇み足をしてしまうことである。同郷で気心が知れている者同士で話を進めるのは意図も通じやすいし、あうんの呼吸で進められるので一つ一つ説明する面倒もない。もちろん日本人同士の間では差別意識など持っているはずもなく、ただ前向きに仕事を進めたいだけである。

 ただ、これは事情によっては差別と受け取られることもある。現地スタッフ側からはわからない日本語で、経過を知らされず、疎外感を感じながら勝手に話が進められていた、と捉えることもできるのだ。特に日本人の仕事上での立場が、現地スタッフと比較して有利な場合は、差別となるケースは多い。日本人側に差別の意図がなくとも、結果的に差別を招いてしまっているのである。

 たとえ面倒でもフェアに仕事をするためにはしっかり相手を巻き込んで、相手にも通じる言語を用いてしっかり意思疎通を心がけなければならないが、日本と相対しながら仕事を進めていく場合は、それを理解されないことが非常に多い。同質の民族単位の中で長時間いるため、何が差別につながるのかという意識を持つ必要性が相対的に低いからだと思う。

差別主義者のレッテルは取られることはなくなった

 曽野氏のケースが差別に対する抵抗感の希薄性から生じているものなのか、はっきりとは言えない。ただ、今回のインタビューを見る限りにおいては、彼女は肝心な部分になると話を逸し、逃げている部分はある。「黒人は大家族主義」という部分において荻上氏に大都市では核家族化もしていると指摘されると「(黒人は)愛情があるんです」という、よくわからない別な話に持って行こうとしている。コラムについての撤回はないとし、書いた意図の追加説明についてもいつになるかわからないという。

 申し訳ないが、これでは「差別主義者」のレッテルを貼られても文句は言えない立場である。本人の意図がどうあれ、もうこの鬼畜的なコラムは差別主義者のレッテルとともにひとり歩きしている。

 将来同様の事件が起きた時、日本に差別主義な作家と新聞社が存在している/いたことを世界は見過ごすことはないだろう。