異国見聞私書録

異国から見たこと感じたこと気になったこと。そして時折テクノロジーのお話。

ビジネス書は捨て、本を読もう

 筆者はビジネス書を読むことは滅多にない。先輩に勧められて読んだこともあったが、読むたびにどこか違和感が残り、しっくり自分の血肉として浸透することは少なかった。その理由はたぶんここに述べられている通りで、即効性がある分、その効力が長続きすることはないのだろう。


6年間ビジネス書ばかりを読み続けて行き当たった壁 : ミクスチャー

 筆者もこのブログ主と同様に、ビジネス書が要らないとは決して言わない。それが必要になる場面は確実にあるし、行き詰まりを感じている時などにはカンフル剤として閉塞感から自分を脱出させる役割は大きい。マンネリ化している自分を別角度から見つめなおし、次のステップを踏み出すためのプッシュ効果はそれなりにあると思う。

 だが薬も過ぎれば毒となるで、ビジネス書ばかり読んでいると人としての底の浅さが垣間見えてしまう瞬間がある。少し例を上げれば、妙に気張っていたり、やる気が空回りしている、物事の継続性が乏しい人が多いように思う。

 自分に対して過剰なまでのタスクを押し付けこなそうとはしているが、結局そのタスクに押しつぶされてしまっている人。新しい「メソッド」を知識として吸収し実践を試みるが、さらに新しい「メソッド」を知るやいなや真っ先にそちらに乗り換えてしまう人。話をノートに一言一句メモを取るが、メモを取る行為そのものに満足してしまい、肝心のその中身がおろそかになっている人。ビジネス書を小脇に抱えて向学心があるように見えるが、実はそうでもなかったりする例を多く見てきた。

 厳しい表現かもしれないが、これらの方々はビジネス書の内容を読んでいるのではなく、「ビジネス書」ビジネスに行動を読まれているのだ。出版社や書店からすれば彼らは本を何冊も買ってくれるいいカモなのである。

◆ ビジネス書の向かうところは画一的

 直球で問いかける内容が多いビジネス書は解釈も画一的になる。中にはもちろん自ら多面的な思考を促す良書もあるが、そのほとんどはいわゆる「指南書」で、解釈が一方に収斂するものの方が圧倒的に多い。「だまされたと思ってやってみろ」と述べているような本には、その背後にある論理が、その著者の相当な経験と実績に裏打ちされたものでなければ、その効果は薄いと筆者は思っている。引用した記事が書いているように、ビジネス書のほとんどは「インスタント」でお手軽な知識なのである。

◆ ビジネス書的思考法では不十分

 小手先で人生を乗り切ろうと試みるのであれば、ビジネス書で塗り固めた思考法で歩むのもいいだろう。だが人生に少しでも彩りを付け足したいのであれば、ビジネス書的思考法では明らかに不十分である。自分なりの多くの解釈ができ、経験したこともないような想いや葛藤を味わうことができる文学、歴史、思想哲学は、想像力と思考力を鍛えることができる静かな良き師匠なのである。

 ただ、文学好きな人は問題ないかもしれないが、かなりの人は馴染むまでに時間がかかるのではないだろうか。ましてや文語体などで書かれていると字を追うだけで疲れてしまう。哲学書ともなれば何が書かれているのか分からないことなど日常茶飯事だ。

 読書にも慣れと訓練が必要だと筆者は思う。はじめは漫画やライトノベルでもいいのでスラスラ読めるものから、純粋に楽しめるものから始めるのもアリだ。内容が軽い本だけで終わってしまっては、その先の深みを経験することができないので、少しずつ難しい本を織り交ぜながら読んでいくのが効果的だと思う。いきなり難しい本から始めてしまうと、結局、読み終わらず、かつ分からずに「つまらなかった」という印象しか残らなくなってしまう。それではあまりにももったいない。

 乱読して多くの本を読むのも悪くないが、その中で考えさせられた本は後日、もしくは数年経ってからもう一度読んでみることをぜひお勧めしたい。その当時は見えていなかった視点が、意味不明だった箇所が、突然トンネルから出た時のように目の前がクリアになっていることもある。筆者は一度読了した本は、原則読まないことにしていたが、ここのところ以前読んだ本を意識的に手に取るようにしている。その時は見えていなかったことが、関心がなかったことが、今になって見えるようになっていたりする。

 

 ビジネス書をさんざん批判していながら、エントリー後半が「指南書」っぽくなってしまったのでここら辺で打ち止めにしておきたい。ただ、筆者のブログは「ビジネス」ではないので、いくら読んでも課金されることはないので、そこのところはご安心を。