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異国見聞私書録

異国から見たこと感じたこと気になったこと。そして時折テクノロジーのお話。

なぜ知性劣化した人が増えてきたかを考える

 宮台真司氏の思想は基本的に好きだ。今回も「表現」と「表出」の区別についての説明など前半部分は興味を引かれたが、後半はまとまりの欠く内容だったと思う。


 現代人の知性の劣化が叫ばれ続けて久しいが、残念ながら同意するしかない。単純な例では、少し時代を遡った人の文献を読むとわかると思うが、文章の表現力の多彩さや深さが現代のそれと大きく異なることに気づくと思う。現代でも高い教養やすばらしい能力を持った人はそれでも存在するが、過去の人たちに比べるとなぜか見劣りするように思えないだろうか。「昔は良かった」と懐古主義的に歳を取っただけなのかもしれない。だがそれを差し引いても現代人の知性劣化の仕方はひどいと思えるのは筆者だけだろうか。

 時間というフィルタを通して良いモノだけが残ってきたという見方もできるかもしれない。しかし現代社会で生成されたモノや思想がこの先50年まで残っているとはあまり思えない。こうした劣化の中には当然、筆者自身も含んでおり、当ブログの文章など数世代前の人の書いた日記などの足下にも及ばないと思っている。

 

 自分がバカになった/なっている原因を日々悶々と考えたりしているが、先ずは勉強をすべきときにまともにしていなかったことが筆頭に上げられよう。本は読んでいた「つもり」になっていたが、乱読するだけでまともに整理していないので知識は断片的で体系立っていない。そしてさらにひどいことに「つもり」でいたのは、自分の周囲の人間と比べているだけで優越感に浸って、世界にごまんといる本当の読書好きなど視野外だった。

 参考・比較対象は自分の周囲という狭い空間だけで、他の空間軸に意識がいかなかっただけでなく、過去という時間軸の考慮も怠った。井の中の蛙、現代風にいえば厨二病とでも言えばいいのだろうか。この病態が長らく続いていた、いや現在進行形でも続いているのかもしれない。

 自分の周囲と現代というフレームワークのみの中で考えてしまっている人は何も筆者だけではないはずだ。ほかにも大勢いるからこそ現代人の知性劣化が叫ばれるのだが、こうした視野狭窄はなぜ増えてきてしまうのだろう。記事にもあるB層の説明「社会的弱者なのに、それを自覚できないIQの低い連中」が手がかりの一つになると思った。これは「視野狭窄なのに、それを自覚できないIQの低い連中」と読み替えることもでき、視野狭窄であることを批判されずによしとする環境に人を置けばそれに居心地よく順応し、自覚しないことは想像に難しくない。もともと視野狭窄であるからほかに目を向けることなく、仲間内で共有できる価値観のみで物事は進んでいく。周囲からバカ認定されても「それの何が悪い」となる。

 おそらくここに格差の固定化する社会が劣化に拍車をかける。格差が固定化されると上・中・低層の風通しが悪くなり、さらに視野は自分たちの世界のみへと内向きに向かう。中層が急速に減っている現代において、上と低層の格差はさらなる広がりを見せ、互いの価値観が共有されることなどほとんどなくなっているのではないだろうか。こうした状態が続けば記事にあるような「感情の劣化」は上・低層共に生じ、全体として劣化状況をさらに補完してしまう。

 

 宮台真司氏はそのような状態に「“ガス抜き勝負”する部門」が有効だという。要はネトウヨと同レベルまでに視座を落とした形の対極勢力を形成することがこの場合、有効だということだろう。

 筆者はこの部分について賛成しかねる。このようなことをすれば向かうベクトルは違えど同レベルの劣化民をねずみ算式に大量生産するだけである。思慮も感情も劣化した人間が大勢を占めれば、その向かう先に光明があるとはとても思えない。

 話がかみ合わない相手に「知的物量作戦」を行ったところで無駄なのは見えているが、かといって今までと同様に無下に扱うのでは状況は好転しない。この状況でできることは、まず相手がどのような性質を持つものなのか深く観察し、その言動の原因と真意を探り当てることにあると思う。その上で腰を据えて対策を練らないと良かれと思ったことが事態を悪化させることになりかねない。

 複雑化し不安定な世の中である。決して原因は一つではないが、現象をひとつずつ紐解いて見ていけば必ず何かしら糸口は見つかると信じている。