異国見聞私書録

異国から見たこと感じたこと気になったこと。そして時折テクノロジーのお話。

ひとたびブログを置き、旅に出ようと思ったのだが

久しぶりにヨーロッパを旅行中でブログの更新が滞りがちになってしまっている。何ぶん見たい場所がたくさんあるのと、いつもよりたくさん歩くことで疲労が溜まってしまい、なかなかブログを書くところまで行き着かない。いつもと違う景色を見ることで情報過多となっている頭の整理をつかせるにも多少の時間を必要とするものらしい。

 

ヨーロッパを旅行するとどこにでも必ずあるのがキリスト教会だ。もちろん宗派などの違いはあるが、それを考慮しなければどの町にも併設されている。人は心の拠り所をどれだけ必要としているかがよくわかる実例であるとも思う。数えたわけではないが、日本の神社仏閣の数と同等、もしくはそれ以上あるのではないだろうか。その上、大規模のものになると、その豪華絢爛さに驚かされる。

残念ながら特定の宗教を信仰しない筆者はその宗教にすがる真意は分かりかねる。なぜ豪華絢爛にする必要性も皆目理解できない。そんなに豪華にするお金があるのであれば、社会的弱者に寄付するほうが効果的かと勝手に思うのであるが、いろいろとややこしい事情があるのだろう。

天国や極楽浄土を豪華絢爛に表現することによって、それに対する憧れを喚起するという見方もある。現世が貧しく苦しければ苦しいほど、「死んだ後の次の段階では」と来世に期待を持たせることが可能である。現世に対して必要以上に施しをしてしまうと、来世に対しての憧れはどうしても薄れる。これでは教会の権威は保てないし、そもそも教会の存在基盤が揺らいでしまうのであろう。であるならば、教会にとって現世は苦しく貧しく、深く考えない人が多い方が都合がいいという考え方も可能になってくる。

翻って現世で苦しむ民たちのほうはどうか。苦しく貧しい上に、教会の豪華さを維持するために更なる「上納金」を求められる。しかもそれを「神の意志」という形で行われれば、拒否するという選択肢はない。全部が全部こうした形式で「豪華さ」が作られ、維持されたとは思えないが、「民に苦しさを上乗せすることで教会の権威維持を図る」ことは少なからず行われてきたことだろう。

考えるよりも司祭の言葉を聞き従うこと。疑問を持つより無条件に信じること。そして皆が行っている行動原理に疑いを持たないこと。これが大筋において繰り返し行われてきたのが、中世ヨーロッパと呼ばれる時代ではなかったか。

善し悪しは別として、統治者にとってその大筋を間違えることがなければ、資源や富を独占できる立場に長らく居座ることが出来たであろう。 そしてその反面、社会的な進歩は大きく遅れたことは想像に難しくない。歴史に「たら/れば」は許されないが、それでもきらびやかで荘厳な大聖堂を前にすると少し考えさせられてしまう。

今ある西欧の姿は、歴史の断面から見れば、特別に良好な状態にあるのだ。限りない飛行機の往来や、海底をつなぐトンネル、情報通信網の発達など今までの歴史からは考えられないぐらい科学技術の恩恵を受けている。その科学は「なぜ」を考えることから発展するのは言うまでもない。そしてその恩恵を、一面的にであるにせよ、平和と繁栄に使えているという事実はある意味、過去の司教たちが口にした奇跡とは全く違う意味で「奇跡」に近いのではないか。

過去の多くの文明がそうであったように、いずれ必ず今の西欧の姿は無くなる。例えそうであっても、比較できる過去を持ち、冷徹な分析をできる現代の目で、将来へどのような過ちを犯したかを伝えられる滅び方を選べるなら選んで欲しいと思う今日この頃である。