異国見聞私書録

異国から見たこと感じたこと気になったこと。そして時折テクノロジーのお話。

ブラックとして汚名を残すのが最後の道か

もうムダだと思う。

ワタミ社長、会社のイメージアップに躍起 「大声で“ブラックじゃない”と叫びたい」 | ニコニコニュース

叫べば叫ぶほど、ブラックであることの疑いは深まっていくことであろうから。

事件や状況証拠が示すには、もう限りなくブラックの疑いは払拭できないだろう。「ワタミ=ブラック」という方程式はすでに社会的な潮流となってしまっているだけに、反発すればするだけさらに叩かれ、利益は減るだけではないだろうか。店名を変更するような姑息な手段に訴えているが、そのうちこれも「ワタミ系列店リスト」が出まわり、売上の伸び悩みが始まることだろう。

言葉を取り消した「365日24時間、死ぬまで働け」や、「営業12時間の内にメシを食える店長は二流だと思っている」といった迷言は、残念ながらネットの発達してしまった時代はいつまでも残ることになる。生物の摂理から否定をしてしまった経営方針は、時代の負の遺産として、検索をすれば誰でもおさらいできてしまう「晒し者」として長らく後世に残ると思われる。たとえ、彼の善意からその言葉を発したとしても、それは彼の中だけの「善意」であり、一部を除くほかの人々には到底受け入れがたいものである。もうこれから彼は、自分の価値観を広めることはあきめたほうがいい。生きることをも否定する価値観や方針についていくマゾヒストはそう多くはないことをそろそろ悟ってもいい頃合いなのだが、きっとそれはないだろう。

 

「成果のためにどれだけ自分の時間を提供するか」という考え方から、「限られた時間枠の中でどれだけ成果を上げるか」という方向性にシフトしてきていることを肌感覚で感じている。

前者は「成果」の定義が曖昧であればあるほど、提供しなくてはいけない時間は指数関数的に増加する。相対評価を過度に重視したり、定量的な評価軸が曖昧な職場ではこの考え方が横行しがちだ。そしてポエムなどを叫ばせることにより、さらに目的を抽象化し、金銭や報奨という具体より、カタルシスという抽象を対価に時間と労力の提供を迫るのである。ちなみにワタミの元会長はなんたら甲子園にも外縁ながら協賛しているようだ。

後者の考え方は生きものとしてより自然に近い。どの生物も必ず死を迎えるからだ。その必ず具体につながる時間枠の中でどこまで自分の時間を提供できるか根をつめて考える。そしてどこまで何をできるかを提示する。雇用主は原則としてそれ以上求められないし、その枠内でできることを必死に考えることが求められる。それは生物として自然であり、個としての自立も求められるより高度な働き方であるとも思う。

 

時代はワタミやほかのブラック企業のような、人として自立した個を否定する甘えた経営方針から遠ざかる時節に差し掛かっているのだと思う。「人間は、仕事以外で成長する方法はない」などと思考停止した価値観で語れるほど単純ではない。彼らはこの先時代の風に乗りきれるのか?できなければ時代の負の側面として、その屍を晒すまでである。