異国見聞私書録

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捕鯨は「蛮人」の定義項目となり得るのか

蛮人の定義は国や民族によって種々さまざまであると思うが、あえて共通する認識を上げるとするならば、人命に対する軽重の違いではないだろうか。

オーストラリア人の94%が反捕鯨の理由 | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

さらにオーストラリアでは、クジラの命に対する認識差異についても「蛮人」定義項目に付け加えるつもりなのかも知れない。その定義からすれば、日本人は「蛮人」の仲間入りするのか否かという、微妙な立場に立たされていることになるだろう。

観光収入源としてクジラが大切であるという理由はまだ理解できる。ホエールウォッチングなどで生計を立てている人にとっては、クジラの減少は死活問題となるからだ。ただ、これについても捕獲および種類の制限、個体監視などでどうとでも調整できる問題ではないだろうか。

問題はクジラは「私たちにとって神聖な生物だ」と認識する、あたかも宗教的な思想背景にあると思う。確かに日本人は鶴を食べる習慣はないが、もし食べる他民族がいたとしても(もちろんどれだけ生息しているかにもよるが)それを止めるような話はあまり聞いたことがない。それぞれの民族にそれぞれの考え方があって然るべきだし、それを曖昧な理由で強制的に辞めさせようとするのは傲慢以外の何ものでもない。

クジラが神聖な生物だというなら、まずその根拠を提示しなければならない。いつから、どのよう背景で、何を持って、誰が「神聖」としたのか。残念ながらそんな「申請」が世界に出されていたことなど、当事者以外、誰も知らないのではないだろうか。このような「神聖視」はある意味、「改宗強要」と受け取られなくもない。人類が始まって以来、宗教論争/闘争は途切れることなく続いているが、この上、さらに火種を持ち込もうとしていると捉えることも可能であると思う。そしてこうした思想は政治的にとても利用されやすいのも人類史を少しかじればわかることだ。

 

日本は捕鯨について、先日の判決で完全に敗北したと受け入れたほうがよい。悪あがきをしている一部の国会議員などもいるようであるが、経済・思想・政治的な思惑で、すでに固められているので判決が覆ることは決してないであろう。ここは負けを受け入れた上で、次の策を考えるほうがはるかに賢い。例えば、上記にもあげた「神聖視」する理由をとことん突き詰めて話し合う場を、一般公開した形で数多く行うのも一つの手段であると思う。問題点を整理し、草の根から「神聖視」する論理を絶え間なく切り崩していけば、いずれ再度、政治上のテーブルに上がる日もあるのではないか。

自分たちの食文化に拘泥するだけでは何も変わらない。こうした問題は多面的に相手の思惑を正確に理解し、それに飲まれないよう情報を上手に発信していく必要があると思う。それは日本人が自分勝手な思惑で「蛮人」として定義されないためにも。