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異国見聞私書録

異国から見たこと感じたこと気になったこと。そして時折テクノロジーのお話。

先生の入学式欠席に見られる「ブラック」の本質とは

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先生が子息の入学式に出席し、自分の勤める学校の入学を欠席したことがちょっとした話題になっているようだ。

担任が「息子の入学式」で欠席、どう思う? - Yahoo!ニュース 意識調査

言うまでもないと思うが、担任が入学式を欠席したからといって何か害を及ぼすようなことはあるのだろうか?入学式に出席せずとも、それ以後の学校生活ではイヤというほど生徒は先生と顔を合わすのである。要は「顔合わせ」がどの時点で成されるかの違いだけであって、入学式である必要性は全くない。県議会議員の人が何やら職業倫理だのなんだの騒いでいるが、そんなことに騒ぐ人の「職業倫理」を逆につぶさに問うてみたい。ここには論理的整合性など全くなく、今まで先生は勤める学校の入学式に出るのは「当たり前だったから」という勝手な「常識」を振りかざしているに過ぎないのではないか。上記のアンケートでは「問題だと思わない」と思う人のほうがわずかに優勢だが、それでも「問題だと思う」人もかなり大勢いることに驚く。

似たような日本の「常識」に高校野球選手の「坊主頭」があると思う。なぜ高校生球児は「坊主頭」が望ましいとされているのか。ざっとネットを探ったが、衛生面や、団結感を出すためにやるなどあまり要領の得ない理由が多いように思う。これもきっと論理的整合性などなく、なんとなく昔から「常識」となっているので多くの球児が行なっていることに過ぎないのではないだろうか。本来、坊主にしたい選手はすればいいし、したくない選手はしないほうがチームとしての懐の深さを表現でき、団結力としては高まるのではないかと筆者は思ってしまう。

 

いつの間にか出来上がっている「常識」は、一度立ち止まり、疑って見ることが必要だと筆者は考えている。疑ってみた結果、その理由に自分が納得できるものであれば取り入れればいいことだし、納得できないのであれば当事者に質問を投げてみる必要があると思う。皆がそうしているから「鵜呑み」に信じるきることは思考停止にほかならない。

いつ頃からこうした「常識の鵜呑み」の強制は始まったのだろうか。筆者が記憶している範囲では中学校ぐらいからだと思う。なんとなく部活に入ることは当たり前とされ、先輩後輩の絶対の序列付けが行われ、部活を辞める人はそれとなく「負け組」と見做されるという経験は筆者だけがしたものではないはずである。

どうしてこうしたことが行われるかといえば、大人の日本社会そのものがその仕組みで動いているからにほかならない。その予行演習を思春期の多感な時期から植えつけることによって、頭だけにわからせるのではなく、体の芯に叩きこむのである。多くを考えず、叩き込まれるがままの人生を歩めば、一部の人にとって、とても都合の良い人間が出来上がるはずである。

その一部の人たち、すなわちこのシステムをよく心得ている人は、以下のようにそれを悪用しようと思えばいくらでもできる。

Twitter / wa_da_i: 日本人が簡単に「転職」できない現実を描いた4コマ漫画が的確す ...

そしてこの構造こそがブラック企業の温床となりやすい本質と社会形態なのではないかと筆者は考えている。筆者も叩き込まれるがまま人生を歩んできた者の一人であるが、幸か不幸か、異国の地に行かされたことによってイヤというほど考えさせられる場面に遭遇した。鵜呑みにしてきた常識について質問された時、答えられないのである。異国人に高校野球選手はなぜ「坊主頭」かということに、納得のできる説明をできる日本人は果たしているのだろうか?せいぜい「文化が違うから」というところに逃げるのが精一杯で、論理的な説明はできないだろう。

ブラック企業やそれに準ずる「常識」を打破するのは、そんなに難しいことではないかも知れない。均一ではない価値観の導入を進めていけば、いずれ必ず「常識」にほころびが出ることだろう。もっとも「常識」に簡単に染まらない人材登用となると、それはそれでなかなか組織に入ってこれないのかも知れないので、やはり簡単にはいきそうもない・・・。