異国見聞私書録

異国から見たこと感じたこと気になったこと。そして時折テクノロジーのお話。

STAP問題に見える社会退化の一端

この事件、泥沼試合の様相を帯びてきた。

【STAP最終報告】小保方氏 コメント全文 「STAP発見が捏造と誤解される」 - MSN産経ニュース

そして以下のブログはとても参考になる見解だと思う。

STAP問題が照らし出した日本の医学生物学研究の構造的問題: 小野昌弘のブログ Masahiro Ono's blog

 

魚は頭から臭くなるという。この問題を眺めているとそう思わざるを得ない。理研という日本有数の研究機関は保身に走り、早稲田大学という屈指の教育機関はほぼ手放しに「博士」という称号を与えるところらしい。

最近、歴史に関係する本をよく読んでいるが、興味深いことが書かれている。通常、時代が新しくなるにつれて、技術は進歩し、洗練されていくと考えるのが普通だろう。ここ20〜30年の技術革新を見れば誰しもそう思うのは無理はない。携帯電話、PC、情報伝達方法、どれを取っても100年前の人には想像もつかないほどの進歩であろうし、「時を経れば技術も進歩する」というのは現代に生きる我々にとって、当たり前の「常識」として浸透していると言っても過言ではない。

しかし、歴史の紐を解くとそうではないことがわかる。場合によっては、過去の時代ほうが技術力が明らかに高かった形跡が遺跡から見てとれるのだという。技術は退行することもあるというのだ。その原因はさまざまであると考えられているが、一言で表すのであれば「国力の低下」ということに帰結する。そして国力の低下を示す前半の兆候の一つとして現れるのは知性の低下ではないかと筆者は考えている。

高度な発見や開発を行うには、バックグラウンドとなる、長期に渡る知識集積環境はもちろんのこと、知性に対する敬い、厳しさ、そして柔軟性が必要となるのは言うまでもない。今回のSTAP問題ではそのどれも欠けており、ドタバタ劇を演じているだけだ。報道はその劇を観客席から煽り、観客はそれを聞いて面白がるだけという、愚にもつかないバラエティ番組を見ているようだ。知性の都であるはずの研究組織が娯楽を演じるという、あまり笑えない状態が続いている。

国力低下の問題が具現化しているのは、今回のSTAP事件だけではない。大きくは少子化問題、震災復興や原子力行政などもそうであろうし、身近なところではブラック企業で働くことや子育てに対する世間の冷酷な仕打ちなどもその例として上がられると思う。だが、過去より輝かしい実績のある知性集積機関が、どこにでもある「保身機関」の延長線上にあったとなればその社会への影響力は計り知れない。ボディブローのように少しずつ効いてくる問題になるはずだ。

今後も知性が集積していると思われている場所から、同様の事件は漏れ出てくることだろう。そしてその頻度も増えてくれば、日常社会にもさらに波及し、誰にも止めることができなくなる。

 

100年後、「昔の電話は持ち歩けたんだって!」と未来の子どもたちは語るのだろうか。そういう未来を望んでいるのかどうか今一度自分に問いかけてみたい。