異国見聞私書録

異国から見たこと感じたこと気になったこと。そして時折テクノロジーのお話。

マインドコントロールの「質」が問われているのだ

マインドコントロールなのは間違いない。そもそも「教育」という行為そのものがマインドコントロールの要素をはらんでいるものだからだ。

東京新聞:戦後教育はマインドコントロール 首相、衆院委で発言:政治(TOKYO Web)

問題はマインドコントロールの「質」なのだ。

 

今の首相の目指しているのは「戦後レジームからの脱却」らしい。ネットで調べると「脱却」とは、

古い考え方や欠点などを捨て去ること。また、よくない状態から抜け出すこと。

という意味のようだ。つまり「戦後レジームからの脱却」とは、戦後体制を捨て去り、抜け出すこと「だけ」をしたいとも取れる。抜け出した後、次の目指すべき指針はここには示されていない。

本当に次の指針はないのか?筆者はあると思っている。あるのだが、あえて「脱却」という言葉の裏側にそれを隠しているのだと思う。「戦後レジームからの脱却」という言葉は、明確に指針を示さないよう巧妙に組み立てられた標語なのだ。

それは指針を明示してしまうと多くの国民が疑問を持つ可能性のある「方向性」だからではないだろうか。首相を取り巻く人やその言動を見ていくとある程度方向性は見えてくる。他にもあると思うが、大まかに取り上げると以下のようになるのではないか。

  • 現行憲法に対する認識
  • 靖国神社参拝という行為
  • 側近たちの戦中・戦後の歴史認識

現行憲法が気に入らないのは彼の昔からの言動でも窺い知れる。特に平和を謳った第9条を敵視しているのは言うまでもない。靖国神社参拝についても先の大戦の戦争指導者たちが祀られており、そこに参拝するということはその者たちを賛美しているとも受け取れる。彼を取り巻く人たちの言動は先の大戦での「敗け」を受け入れられず、必死に「敗け」を取り繕おうと日々もがいている。

これらを吟味していくと「戦後レジームからの脱却」というのは、「戦前レジームへの回帰」とほぼ同義であるということが見えてくるのではないだろうか。それはかつてあった「絶対的価値」を基軸においた国家観であると言い換えてもいいと思う。

 

以前にもブログに類似したことを書いたが、絶対的価値を基軸においた公的運営というものは、筆者は問題があると考えている。

絶対的価値観に拘泥する人に公共放送は向かない - 異国見聞私書録

絶対的価値観は他の多面的な視点を結果的に封じていく傾向にあるからである。絶対的価値にそぐわない意見や考えは排除され、すべての思想や物事は絶対的価値観に沿って収斂せざるを得ない。異なる考えを認めてしまっては、絶対的価値そのものがゆらいでしまうのだ。

この文脈で考えた場合、首相の求める「教育」とは新興宗教のマインドコントロールに近似している。絶対的なモノを前提においた「教育」がなされ、それにそぐわない考えは教えられることもなく、知らされることさえない。知らせようとした者には当然ペナルティが課せられるだろう。

 

「戦後教育」のマインドコントロールが行われた、現在の日本では少なくとも首相自身の考えを窺い知ることができるし、こうして筆者の考えも発信することができる。ほかのブログからも多様な意見を拾うこともできる、「多面的な価値」がまだ紛いなりにも認められた「教育」であると思う。筆者は「戦後教育」のマインドコントロールと、「戦後レジームからの脱却」教育のマインドコントロールとを比較した場合、まだ前者のほうがマシだと思える。

「戦後教育」が決して及第点を与えられるものではないが、それなりの役割と結果を出してきたし、「戦後レジームからの脱却」教育では決して学べないことを提供してきた。両者を「マインドコントロール」の質としてみた場合、その差はあまりにも歴然としていると思う、今日この頃、そして明日である。