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異国見聞私書録

異国から見たこと感じたこと気になったこと。そして時折テクノロジーのお話。

日本学歴の印籠は異国では意味を成さない

thinking living abroad

学歴ね。

なんだかんだ学歴ってめちゃくちゃ重要という話 - World Journal

今の世の中において半分ぐらいは事実かなと思うと同時に、半分は意味はない。

日本で暮らしている限りにおいてはその「印籠」は意味を持つのは事実だが、異国においては「印籠って何?それ食えるの?」から始まる。StanfordやOxfordなら欧米圏においては印籠の効果はあると思うが、"Toudai"では残念ながら意味すら通じないことが多い。

日本国内だけで生涯を終えるつもりで、外に出る意思が全くない人は印籠取得に勤しむことに反対しない。上記のブログにもある通り、「ありとあらゆる面で圧倒的な力」を期待することが出来るのはウソではないだろう。

異国に出る意思のある人は、自分の得意分野を活かし、かついかに自分の意志を効果的に伝えるかについて学んでもらいたい。その結果、世界的に有名な大学を目指し、起業することにもなるかも知れないし、逆にやさぐれることになるかもしれない。一つ言えるのは、日本の有名大学の印籠にすがろうにも、それは役に立たないということだ。反対に印籠に拘泥すればするほどやさぐれていく可能性は高まると思う。

 

世界にはすごい人は普通にいる。例えば言語を例にとっても、4カ国語ぐらい話せる人はざらにいる。もちろん彼らには「アルファベット語圏の言語」というアドバンテージはあるだろう。だが日本人で英語だけでも習得できている人はどれほどいるのだろうか。

一例に過ぎないが、こうした差や違いを日常的に見ていると「印籠」の持つ意味合いが相対的に小さなことに思えてきてしまう。 印籠にこだわることが自分の本当にやるべきことなのか、ほかに見つめるべきところがあるのではないだろうかと。究極のところ、自分がどうあるべきかを決められるのは自分自身であって、印籠の力ではない。

印籠は補助的な意味合いで力を貸してくれることは否定しない。だがもし印籠に何かしら意義を求めるとしたら、それは印籠そのものではなく、印籠を取るまでに自分が辿ったその「過程」にある。重ねてその「過程」から次の「経験」を作り出せねば真の意味での意義はないように思う。

互いの文化背景が違うもの同士が組み合い、摩擦し、価値を生み出していくには、印籠そのものは不要だ。自分の持つ経験をいかに活かし、相手の持つ経験に素直に耳を貸し、そこからどう相乗効果を出せるかが勝負どころとなる。そしてその暁に酌み交わす酒の味は、日本では味わえないものになることは保証したい。