異国見聞私書録

異国から見たこと感じたこと気になったこと。そして時折テクノロジーのお話。

「自己責任」だけでは大人として足りない

どうにも以下の記事の「自己責任」が気になる。

選挙ステッカーで一歩ずつ市民は動く | 和田靜香

彼女は「私たちには自己責任、というものが刷り込まれている」と言っていた。
<中略>
私たちには長く「政治家なんて誰がやっても同じ」という感覚が染み込んでいるが、そこへ自己責任論として「自分の問題は自分で片付けるべし」という思いが強く重なっているというのだ。政治家が誰だろうと関係ない。選挙になど行ったところでどうにもならない。20代の目の前に山積みされる雇用やブラック企業、奨学金の返済といった幾多の問題を自分だけで解決していこうとあがいている。 

大人になる条件の一つとして、自分で可能なことを知り、同時に自分では不可能なことも認識することが上げられるのではないだろうか。自分の力で物事を解決していこうとする姿勢は大切だが、自分一人ではどうにもならない時は、人の助けを借りていくことも同様に大切なことだと思う。

自分一人で全てできると思うことは、ある意味思い上がりに等しく、大人としての資質が欠けていると言わざるを得ない。この記事に登場する女性は大学3年生らしいが、成人式を経験していても精神は大人に届いてはいない。

とはいえ、現代日本の大学生に大人の心得を体得しておいてもらうとする方が無理があるのかも知れない。確かに自分の大学生時代を振り返ってもそんなに偉そうなことは言えた義理ではない。

ただ、少なくとも言えるのは「自己責任論」に裏打ちされた、中二病に罹患したような認識は持ち合わせていなかった。自分にとってのほとんど世界のすべてが疑問で、それに対してどう折り合いをつけながら暮らしていけばよいのか、激しい悩みの渦中にいたことは確かである。「自己責任論」に寄りかかって、自己の支柱にしながら生きなければならないと考えたことは露ほどにもなく、そもそも支柱そのものの存在すら、自分の中では蜃気楼のようなものであった。

現代日本の20代が何を考え、生きているのか知るよしもないし興味もない。が、今この文章を読んでいるあなたが20代であるならば少し考えてみてもらいたい。思考を少し深めれば愚にもつかないと理解できる「自己責任論」を、もし社会に生きる拠り所としているのであれば、それはとても頭がおめでたい話だと思う。社会が本当にそんな人間を望んでいるのか、友達や先輩、先生などに聞いてみるといい。そして何よりそんな自分を本当に自分自身が望んでいるのか問いかけてみるといい。

 

少し話を変える。今回の都知事選挙の候補者であった田母神氏には若年層の投票率が高かったと聞く。よく呑み屋にいるおっさんのクダまく話程度の「政策論」や彼の言動が自分たちの腑に落ちたのであれば、悪いことは言わない、自分自身の知力低下を疑って見ることだ。参考にするヒントは以前にも書いたのでそちらにもぜひ目を通した上でご判断頂きたい。

「今の東京にあなたが極めて不適任な都知事だと思う」理由 - 異国見聞私書録

とまあ、 ここまで書いて当ブログもオッサンの戯言に相違ないと思う今日この頃である。