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異国見聞私書録

異国から見たこと感じたこと気になったこと。そして時折テクノロジーのお話。

「永遠の0」をどう認識するかが問題なのである

thinking

作品と作者の人格は分けて評価しなければならないと誰かが述べたが、「永遠の0」ほどその言葉がふさわしい作品もないかと思う。

『永遠の0』の何が問題なのか? | 冷泉彰彦 | コラム&ブログ | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

「永遠の0」の作者には申し訳ないが、筆者はこの本を読んだ時、作者の思惑とはおそらく真逆の想いが去来した。

具体例を言えば、靖国神社を参拝することに対して肯定的な小説作者の思想とは正反対に、筆者はこの神社に参拝するという行為は、戦争の犠牲になった人々に対して非礼極まりない行為だと再認識し、その想いはさらに強化された。自殺兵器を立案・開発・採用していった戦争指導者たちが祀られていることはこの神社の「穢れ」であり、その「穢れ」をどこか他の場所に移して「晒す」ことをしない限り、この神社は「ブラック神社」のままで在り続けるという想いは強まった。

閑話休題。

靖国神社参拝に賛成な人たちは心の根っこの部分で、先の大戦での敗北を受け入れられないのだと思う。戦争行為を継続したのは正しく、負けたこととされているのは何かの間違いであるという認識がどこか意識/無意識下にあるのではないだろうか。「負けたことは何かの間違い」という認識を世界に認めさせようとやっきになっている感じが見受けられるが、究極的にそれを世界に認めさせたいのであれば、再度、世界戦争をして勝つしかない。だが、筆者はこの考えを受け入れることは断じてありえない。なぜなら戦争行為は「絶対悪」を大前提として、認識するべきだと考えるからである。

敗北を受け入れられない人たちは、再度世界戦争をする覚悟は本当にあるのだろうか?その戦争に勝てるという根拠はどこから来るのであろうか?そして戦争をすれば、ちっぽけな「勝利」という名誉のために、どれだけ自分の家族、友人、仲間、国民に犠牲と悲惨が伴うかというイメージができた上で語っているのだろうか?

はっきりしていることは日本人は先の大戦で負けたことである。世界の認識は全てここから始まる。この認識を覆すような発言や行為を繰り返すようでは、引用したコラムにもあるように、再度「戦勝国が寄ってたかって日本を悪者にしよう」とするだけなのだ。そのような事態になる覚悟も準備もないくせに、頭の悪い発言を繰り返すのは愚行以外の何ものでもない。

負けたことは恥ずかしいことではない。負けたことを認めようとしないその姿勢が、見苦しく恥を晒しているのである。例え敗戦国でもそこから学べることはたくさんあり、胸を張って認めてもらう行為は頭を使えばいくらでも可能である。敗戦後の高度成長もその一例なのではないだろうか。

誇りを取り返したいのであれば、今のような負けを覆そうとする愚行を繰り返すより、負けから学んだことをいかに平和を望む国民として発信していくかが求められているのではないかと思う今日この頃である。