異国見聞私書録

異国から見たこと感じたこと気になったこと。そして時折テクノロジーのお話。

絶対的価値観に拘泥する人に公共放送は向かない

私人がどのような信条を持とうが自由だが、公的な立場にある人が以下のような認識では問題だ。

長谷川三千子氏の追悼文全文:朝日新聞デジタル

長谷川三千子氏、政治団体代表の拳銃自殺を称賛:朝日新聞デジタル

この長谷川氏はNHK経営委員だという。NHKは公共放送で、

国内放送及び内外放送の放送番組の編集にあたっては、公安及び善良な風俗を害しないこと、政治的に公平であること、報道は事実をまげないですること、意見が対立している問題についてはできるだけ多くの角度から論点を明らかにすること

日本放送協会 - Wikipedia

が求められている。

上記の追悼文を出したのはNHK経営委員になる少し前なので、経営委員に名を連ねることに事実上、「問題はない」という事なのだろうか。そしてわずか数週間で彼女の認識が大胆にかわり、NHKの委員として「公平な認識」を持って仕事を遂行できると判断したのだろうか。そう判断した人たちの知力には、大いなる疑問符が付くのではないだろうか。

現代日本社会で拳銃を持って新聞社に入る行為はそれだけで十分テロ行為と見てよいだろう。そのテロリストを礼賛する追悼文を堂々と出している人物は、テロリスト思想に追随する可能性があると判断はできなかったのか。例えば米国でウサマ・ビン・ラディンを礼賛する追悼文を出した人が公的な地位につこうとしたならば、それは大問題になるだろう。

問題はまだある。この追悼文には現行憲法を否定し、あたかも旧大日本帝国憲法が正しいかのような文言がそこかしこに存在する。公共放送を担っていこうとする者がこのような認識では本来第一次予選で即時アウトである。如何に現行憲法が嫌いであっても、その法に沿わないような発言を堂々としているようでは公的な地位に付く資格はない。しかも論理的な法の問題点を問うているのではなく、彼女の気持ちの吐露をしているだけに根は深いように思う。

 

個人的な見解だが、絶対的なモノを強力に崇拝したがる人に相応しい公的な地位は、司祭などの宗教的な立場に限られるのではないだろうか。そもそも強力に絶対者を据え置く人に、「できるだけ多くの角度からの物事を見て行く」ことを期待するのは無理がある。絶対唯一に物事を見るからこそ「絶対的価値」が存在するのであって、それを多面的に見て行く行為そのものが彼らには認められない。仮に認められたとしても、結局収斂する価値観や論点は一つの方向に絞られていくに違いない。その結果、絶対的価値以外は認めない、排他的な「空気」が醸成され易くなるのではないか。特に言論機関にそうした「絶対的価値」を認めさせてしまっては、社会的価値観もいずれ一つの方向へ収斂し、閉塞して行かざるを得なくなる。

 

筆者は多元的でかつオープンな社会を望む人間の一人である。異国人同士の意思疎通距離が年々近くなっている現代において、絶対的価値は日々相対化していると肌で実感しているからだ。そういう世界にあって自分と折り合いをつけながら暮らしていくには、多面的価値観を受容できるほうが圧倒的に有利だと思う。そうした文脈においてもこのような人選は時代を逆行するものだと考える今日この頃である。