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異国見聞私書録

異国から見たこと感じたこと気になったこと。そして時折テクノロジーのお話。

「大人専用」に設計された街や国では思考も短絡化するのは必然

thinking

以前、こんな記事を書いた。

不寛容であることを当然視する社会に明日はあるのか - 異国見聞私書録

そしてこんな記事を見つけた。同感できるところは、全てではないが、多くある記事であった。

赤ちゃんにきびしい国で、赤ちゃんが増えるはずがない。 | 境治

 

以前日本に帰国した際、都心部のビジネスホテルに家族で泊まらざるを得ないシチュエーションになったことがある。子どもはまだオムツが取れない年齢だった。オムツなどは意外にかさばるため、必要なだけ手荷物として持っていたつもりであったが、足らなくなってしまった。オムツを買うためにカミさんは出かけたが一向に帰ってこない。ようやく戻ってきたと思ったら、オムツ一つ買うのに東奔西走してようやく見つけたと言うのである。

このときの経験から思った。日本は子どもに厳しい国なのだと。言い換えると、都心部はまさに「大人専用」に設計されていて、子どもの入る余地はほとんどない。子どもをほしいと思わない人が増えるのもある意味当然なのである。 

若年層が充実していない国の国力が衰退していくのは必然である。視点を変えれば、意識的なのか無意識なのか、自ら衰退を望んでいると見られなくもない。一方で少子化問題を大きく騒ぎ立てながら、一方で衰退を自ら進んで望むという、なんだか矛盾と徒労をはらむ無意味な試行錯誤を真剣な顔をして日本人は行なっているのではないか、と異国の地から見ていると心配になる。

 

「大人専用」の社会構造は思考の固着化も生む。大人中心の社会構造や価値観では、電車の中で子どもが泣いていたなら、反射的に「うるさい!」と思うだろう。自分たちの静かだった世界にうるさい邪魔者が紛れ込んできたと認識されるのだ。次に出るのが排除したいという欲求だ。早く静かな元の世界に戻したいがゆえ、うるさい異物を「排除」したい方向で思考は働く。こうした思考の流れから「公共交通機関に赤ん坊を載せるのは非常識」議論が始まるのだと思う。そしてその「非常識」と考える思考が一般化し、「大人」たちの脳裏に固着していくのだろう。その結果、「子連れだと電車にさえまともに乗れない」といった社会矛盾が発生していく。

このような思考停止に陥ると、脊髄反射的に物事をみていくことになり、問題の本質も見えなくなっていく。本来は「子連れはラッシュアワーに乗るなんて非常識だ!」と短絡思考に走るのではなく、

  • どうすれば子どもが泣き止むのか考える
  • どうすれば電車の混雑を少しでも軽減できるのか考える
  • 問題を誰にどう伝えていけばいいのか調べる

といった取り組みが、草の根レベルからなされることが望ましいのではないだろうか。問題の本質は「大人」本人が不快に感じていることにあるのではなく、子どもが不快に感じていることにあるのではないだろうか。

「大人専用」の社会構造は一面的な価値観しか認めず、柔軟な発想を阻害していく。そして問題の本質に目を向けられないことからさらなる思考の固着化を生み、その悪循環に陥っているのが今の日本の状況ではないだろうかと考える今日この頃である。