異国見聞私書録

異国から見たこと感じたこと気になったこと。そして時折テクノロジーのお話。

愛国心は国家が育むものなのか

逆説的に捉えると、こうした文言を盛り込まなければならないほど、「愛されていない」ということなのだろうか。

安全保障戦略に「愛国心」明記へ 自公が了承
http://www.asahi.com/articles/TKY201312100267.html

米国に住んでいた時、国を愛することに旺盛な人はたくさんいた。学校や公的な場では皆、右手を胸に当て、National Anthemを歌っていた。別に誰ともなく、ごくあたり前のように多くの人がそうしていた。そしてその中で歌っていなかったとしても、どこかの国のように「口元監視」をされる心配もなかった。米国に対して「愛が持てない」という意見があったとしても、それはその人の意見として尊重される雰囲気が少なくとも住んでいた地域にはあった。欧米の多くの国では多民族国家ゆえ、こうして互いを認め合うことが一つの生存の知恵となってきたのではないかと思う。

日本は黒髪黒目の日本人が圧倒的多数を占め、相対的に見て多民族国家ではない。個々人の意見を認め合うよりも「場の空気」を優先する民族であると思う。この背景から考えた場合、「場の空気」を上手に醸し出せる人が優位に立つことは想像に難しくない。この「空気を醸し出せる人」が「力」を持つ人ならば、その影響力はより強いものとなるだろう。たとえ、嫌だと思っていても無言の強制性により「黒を白」にしてしまうのは、「空気」が濃厚であれば可能なのだ。

こうした文脈で考えた場合、「欧米では愛国心が育まれている」からといって、上記のような「空気による愛国教育」を行ったとしたら、日本に米国同様の愛国心が育つとは思えない。日本特有の「空気」によって育まれた「愛国心」はむしろ自閉・排他的で、「空気」に合わない考え方を卑下、嘲笑する方向に傾いていくのではないか。これは同時に世界の中での孤立も意味するものだと思う。

そもそも愛は強制したり、明記すれば育まれるというものではない。電車で隣の人を「明日から愛せ」というのは無理があるのと同じことである。本来、国家が誠実な姿勢で長期間に渡り国民と向きあえば、国民側から自然と湧き出てくるはずのものだと思う。それを国家側から「国を愛す心は持つものだ」というのは本末転倒だ。ストーカーやどこからか湧いた新興宗教紛いのいかがわしさが漂う、明日を不安にさせる国家政策だと思う。